BL受け攻め文化結局なんなのか問題

どーーしてBLのオタクはこんなにも受け攻め固定非固定リバ等セックス・ポジションを重視するのか、人間性や関係性に対する解釈がなぜセックス・ポジションの話になるのか、BLのオタク達にとってセックス・ポジションがなぜそこまで核心的なものであるのか?
BL受け攻め文化結局なんなのか問題、まだ自分の中で納得できる答えが見つかってないんだけど、ひとまず整理しようかな〜と思って書きました。というわけで、以下はBL受け攻め文化結局なんなのか問題について。

 

 

▼ BLカップリング論争

BLのオタク(特に二次創作)をそれなりの期間やっていると、必ず一度はカップリング論争を目にしたことがあると思います。
A×Bなのか、それともB×Aなのか、はたまた総受けか総攻めかリバかモブはありか同一カップリング内でも「こういう受け/攻めは嫌」などなど。商業BLのオタクだとまあ最初からカップリングも物語も提示されているのであまり見ないのですが、解釈の余地がある二次創作だとこういう論争は必ず見かけます。

 

こういう論争を見ていると、なんだかジェンダーを巡る論争みたいだなと思うことがあります。女性的な受けの是非とか、リバ=対等論とか。
もちろんどのような好みの人であれ、それぞれのこだわりがあり、理由は決してひとつではありません。各人が何をどのような理由で好んでいるか、というのはそれぞれ異なった理由があると思いますし、それをあんまり簡潔にまとめるのもどうかという気はする。

 

でもやっぱり、ここには単なる個々人の好み以上のもの、性と人間関係を巡る根本的な問題が存在しているように思います。
セックス・ポジションは単にセックスにおいてどういう役割を果たすかという問題だけではなく、人間性や人間関係に深く関わっているかのようである。実際に深く関わっているかは別として、少なくとも多くの人間にとってそのようにみなされている。とりわけBLにおいてその傾向は顕著です。

人間性や関係性に対する解釈が、BLでは非常にしばしばセックス・ポジションの話になる。セックス・ポジションと人間性・関係性をあからさまに直結させる傾向が、BL文化には確実に存在しています。

 

 

▼ セックス・ポジションと権力バランス

まずBLに限らずより一般的に言って、そもそもセックス・ポジションと人間関係はどういう関わりを持っているのか?という問題があります。
受け攻めと人間関係が関わりを持つとすれば、それは端的に言って「どちらが能動的か/支配的か」という話になります。受けが支配的にリードするにしても、「セックスにおいて受けだけどリードする」という形なのであって、攻めが支配的にリードする関係とはやっぱり種類が違う。一般的に言って「対等」な関係であったとしても、能動性や受動性のバランスというものは必ず存在します。
要するにセックス・ポジションと人間関係の関わりは、ものすごく極端な言い方をすると、権力関係のバランスの話になる。

 

じゃあどうしてセックス・ポジションと人間関係の関わりが権力バランスの話になるかというと、セックスが能動/受動、支配/被支配と結びつくものとして社会の中でイメージされているからです。
たとえばセックス・ポジション、とりわけ受動的な立場にまつわる根深い偏見というものはやっぱりあると思います。「メス堕ち」という割とアレな単語もありますが、要するに受動的で快楽にのまれるのは「堕ちる」ことという考え方がある。

 

BLだけではなく、それはとりわけ性的に受動的とされがちな女性の立場とも結びつき、「性的に受動的であることはどこか屈辱的なこと、劣位に置かれることである」という考え方として、長らく社会で蔓延してきたものです。

ちなみにわたし個人はこういう考え方が好きではありません。ただ、この考え方を間違ったものとして拒絶するにしても、それが社会に存在していることそのものは否定できないでしょう。

 

この考え方に賛同するにせよしないにせよ、ともかくこうした、性的受動性にまつわる「呪い」めいた考えは存在するのであり、少なからずリアルな人間関係や人々が抱くセクシャル・ファンタジーに影響を及ぼしている、ということは言えるんじゃないかなと思います。

 

 

▼ やまがたさとみ『感情回路』

ところでセックス・ポジションと人間性や人間関係の関わりについて考えるとき、個人的にすごく好きで印象に残っている作品があります。
やまがたさとみの『感情回路』っていう商業BL漫画なんですけど、これはセックス・ポジションを巡る呪いが人間関係にどんな影響を及ぼすか、そこからいかに解放されるかについての物語なんです。端的に言うと、それは「受け」にまつわる「呪い」をとく物語です。

 

感情回路 (花音コミックス)

感情回路 (花音コミックス)

 

 

『感情回路』はざっくり言えば、セックスにおいて「受け」であることを肯定できなかった“男性的”な男性(ハルジ)が、「受けである自分」を肯定できるようになる物語です。
ハルジは水口という男性とかつてセックスする関係にあったのですが、二人とも「男性同士」であることへのあれこれからうまく素直になれず、結局別れてしまう。互いに恋をしながら、虚勢を張って「セックスだけ」だ、後腐れないのがいい、なんて言ってる。水口はハルジを抱いておきながら「女みたいに抱かれてんじゃねーよ」などと言うし、ハルジはそれがトラウマになってしまう。マジでなんてこと言うんだ水口。

 

そして別れてしまった二人の間に表れるのが、主人公の園田マキなんです。

 

マキはハルジを知りたいと言う。その人を知るためにセックスしたいと言う。だから「いれてほしい」と言う。マキとハルジはセックスする。そして触れることで、マキはハルジから、ハルジが誰かに教えられたこと・したいと思うこと・したくてもできなかったこと、を感じ取る。ハルジはマキを抱くことで、「受け」であることに屈託のないマキを目の当たりにすることで、水口との付き合いを破綻させた「受け」を巡る呪いから解放されていく。

 

ハルジはマキを抱いて、マキが抱かれる様子を身を以て知ることで、セックスにおいて受けであること、愛情を表現すること、それを肯定することを知っていく。マキとのセックスは、ハルジにかけられていた呪いを解くわけです。

 

受動性を正面から肯定するマキは、セックス・身体を通じてふたりの「感情」をつなげる「回路」になる。

 

ハルジにかけられていた「呪い」とは、「女みたいに抱かれてんじゃねーよ」という水口の言葉が象徴するように、セックスにおいて「受け」であることを巡る呪いです。
受けであること、挿入されることは、ハルジに引け目を感じさせるものでした。
それは彼にとって多かれ少なかれ屈辱的なことであり、攻め=水口にとっても、(素直になれなかった、という部分があるにせよ)揶揄するような言葉が口をついて出てしまうようなことだった。それは性的受動性をめぐる「呪い」です。

 

そして『感情回路』はBLなので、この呪いは男性が引き受けるものとして描かれています。
要するに性的に受動的であること/挿入される側であることそのものの呪いとしてではなく、「男性としてのアイデンティティ」にまつわるもの、少なくとも身体構造の条件的には「挿入する側」に回る可能性がある人間の持つ苦悩、ジェンダーアイデンティティの問題として描かれている。

 

もっとわかりやすく言い換えましょう。
性的に受動的であること=受けであることを巡る「呪い」は、BLでは男性が引き受けるもの、潜在的には「逆転可能」なものとして描かれている。

 

 

▼ イメージのリアリティ

と、こんな風に言うとおそらく誤解を招くと思うので、急いで付け加えます。
わたしは別に、男性同士は「対等」だから良いよねとか「リバがやっぱり対等で良い」とかの話をしたい訳ではありません。(言うまでもないことですが、男性同士の「対等」な関係を好む人やリバ=対等と考える人を否定したい訳でもありません。)
またここで「逆転可能」という言葉を使ったのは、別に実際に逆転する、ということではありません。あくまで可能性であり、そこにある身体構造の条件の話です。

 

一般論ですが、同じ身体構造を持っているからと言って「対等」な関係になるとは限りませんし、挿入されたりしたりすることで「対等」か否かが常に決定づけられるとは限りません。
 

何を、どの程度であれば「対等」とみなすかにもよりますが、ともかく穏当な一般論を言えば、セックス・ポジションは関係性を常にすでに決定づけてしまうものではないのです。
(あとまあ個人的には、そもそも人間関係が究極的に「対等」であることはないんじゃないかなと思います。結局、たとえ同じ性別であったとしても別の個体なわけですから。)

 

セックス・ポジションと人間関係の権力バランスを短絡的に直結させることは、端的に言って誤りです。それはこの世界の、経験的事実に反しています。
これは穏当な一般論で、ある面では間違いなく正しいものです。

 

が、穏当な一般論では所詮何も説明できない、というのもまた正しいと思います。
性的に受動的であることを巡って形成されるイメージの呪いが持つ力も、その呪いがわたしたちの意識にどんなものをもたらしているのかも、そもそも性と権力と人間関係がどんな風に絡み合って人々に受け取られているのかも、受け攻めセックス・ポジションがなぜこれほど核心的なものとして受け取られているのかも、こうした一般論は何一つ教えてはくれないのです。

 

したがって次のように言う必要があります。

身体構造やセックス・ポジションは、関係性の権力バランスを決定づける訳ではない。けれどもセックス・ポジションや身体構造について人々が抱く「イメージ」は存在している。そしてその「イメージ」がもたらす影響力は、紛れもなくリアルなものに他ならない。

たとえば性的受動性を「屈辱」と感じる人が少なからず存在するように。それが水口とハルジの関係を一度は破綻させてしまったように。あるいは性的に受動的な立場に置かれることが、大変な「苦難」として経験されることがありうるように。

 

 

▼ 「ねじれた表現」の可能性

そもそもなんでわざわざ長々とセックス・ポジションを巡るイメージの話をしているかと言うと、このことが「BLのオタク達にとってセックス・ポジションがなぜそこまで核心的なものであるのか」に関わっていると思うからです。

非常にしばしば核心的なものとして捉えられているセックス・ポジションって一体何なのか、人間性や人間関係の解釈になぜそこまで関わるように思えるのか?

 

以前、わたしは「BLには、女性ジェンダーの苦しいあれこれがねじれた形で表出している」という内容のブログを書いたんですけど、受け攻め文化のあれこれも女性ジェンダーのしんどいあれこれに関する「ねじれた表現」なのかなと思うことがあります。もちろんそれだけではないけれど、少なくとも一部分を形成する要素ではあるのかな、と。

 

ざっくり言うと、受動性が運命づけられているかのようである(実際にそうだということではなく、少なくとも社会で「受動的」なものとして非常にしばしばイメージされてしまっている)身体を持って生きることにまつわるしんどいあれこれが、セックス・ポジションに関する強いこだわりとして、「ねじれた表現」として表出しているのかもしれない。と思うときが(わたしは)ある。

 

明確に意識されていなくても、なんとなく無意識に存在しているしんどいあれこれがあるのかもしれない。*1

先に言及した『感情回路』では、マキがハルジを救いましたが、ハルジを救うのはかつて彼に「女みたいに抱かれてんじゃねーよ」という言葉を投げつけた攻めの水口ではなく、ハルジと同様に「受け」であるマキです。

水口がハルジに心ない言葉を投げたことを謝ったとしても、マキがハルジにもたらした救いと同じものではないでしょう。マキは「攻め」である水口にはできない仕方でハルジを救うことができたし、バラバラになっていた感情をつなぐ「回路」になることができた。
そしてBLはある意味で、ハルジにとってマキが救いであり「回路」であったのと似たような意味で女性ジェンダーのしんどいあれこれに対する救いないしはある種の「回路」のような側面があるのかもしれない。と思うことがわたしにはあります。

 

ただ以前のブログでも書いたように、人間の反応は複雑であり、人間の欲望は複雑です。
受動性や非対称性を意識的にであれ無意識的にであれしんどく思っていたとしても、その反応はたとえば「能動的になりたいという願望を持つこと(攻めへの自己投影など)」といったストレートな形で現れるとは限らない。*2

意識されていることと欲望のあり方の回路は複雑です。カップリングの好みが千差万別なように、現れ方は様々だと思います。

いろんな人がいる中で、少なくとも確実なこととして言えるのは「BLではセックス・ポジションが非常にしばしば核心的なものになっている」程度であり、そのこだわりはあるいは「ねじれた表現」なのかもしれない、ということです。

 

 

▼ セックス・ポジションとジェンダー

あとは「人間性や関係性に対する解釈がなぜセックス・ポジションの話になるのか」問題なんですけど、結論から先に言うと、セックス・ポジションとジェンダーの間の等式(というか、そこに等式が成立しているかのように捉える考え方)が社会において存在するからだとわたしは思います。

 

社会には「挿入されている=受動的=女性的、挿入する=能動的=男性的」というイメージの等式が(残念ながら)存在しており、この等式をどの程度受け入れるか(女性的な受け、男性的な攻めと解釈するか)、何かしらのひねりを加えるか(男性的な受け、女性的な攻めと解釈する、もしくは両方女性的/両方男性的とする等)、それとも拒絶するかといった形で複数の解釈が存在する。

ここでは便宜上「女性的」「男性的」といったざっくりした言葉を用いましたが、この言葉によってどんなものをイメージするかも人によって様々であり、これらの言葉にはグラデーションがあるので、解釈は多様に増殖します。

 

たとえば男性である受けを、セックスにおいて「挿入される側」だからと言ってあたかも「女性」であるかのようにみなすのはいかがなものか? あるいは、攻めがセックスにおいて「挿入する側」だからと言って過剰に「男性的」であることを求められる(スパダリ攻めとか)のはいかがなものか、いやいや受け攻めがどれほど(古典的な)性役割をなぞっていようと/(古典的な)異性愛をなぞっていようとそこに何の問題があるのか? むしろ「男なんだからみんな挿入したいはず」的な男性の受動性を否定する言説はそれはそれで「男性らしさ」の規範の押し付けなんじゃないか? しかしさすがに料理するのは絶対受け、みたいなのはちょっと保守的すぎない? などなど。

 

BLでは、受け攻めの話がしばしば各人のジェンダー観の話になっているように見えたりすることがある。だからカップリング論争がまるでジェンダーを巡る論争のように思えることもある。
とはいえBL、つまり男性間の関係として描かれている以上、いわゆる男女の性役割をめぐる議論と重なりつつも離れていく側面があります。男性間の関係として描かれているので、(古典的な)異性愛を重ねるかどうかという問題はあるけれど、とりあえずそこではいわゆる「男女の差異」が中心の論点になっているのではありません。

 

論点になっているのは「男女の差異」ではなくセックス・ポジションの差異です。言い換えれば、ジェンダーとセックス・ポジションの間の関係性です。
つまり、受けは「挿入されている」からといって「女性的」なのか、攻めは「挿入する」からといって「男性的」なのか、それともセックスにおいて挿入されていようとしていようとその人の性格や振る舞いには何も関わりがないのか?という話。

 

要するにそこではセックス・ポジションとジェンダーの間の等式、「挿入される=受動的=女性的、挿入する=能動的=男性的」という等式それ自体が問題化されている。
ジェンダー論風味のカップリング論争を突き詰めると、そういうことになると思う。セックスとジェンダーの関係をめぐる想像的な再構築と言ってもいい。そしてそれはたとえば「女性的な受けを好き=保守的なジェンダー観」などの問題でもありません。BLに舞台を移すことで、この等式が本質的なものか否かへの問いはすでに始まっているのだから。

 

 

▼ 最後に

BL受け攻め文化結局なんなのか問題、たとえば逆カプ見たときのほとんど生理的嫌悪感とか、ああいう単なる「考え方の違い」というには強烈すぎる反応・感情の正体はまだ言語化しきれていないんですけど(いちばん重要では?!)、とりあえず今回はここまで。

ただ最後に、そもそもセックス・ポジションにこだわらない、左右なし・どっちでもいい・セックスしないカプが好きっていうのもあるよね、って話だけして終わりたいと思います。

 

ここまでずっと、BLのオタクにとってセックス・ポジションが核心的な問題であるのはどうしてか、という形で長々書いてきたんですけど、別に左右こだわらないオタクがたくさんいることも事実です。
ていうかわたし自身、カップリングによってこだわったりこだわらなかったりする。どっちでもいいな、と思うこともあれば、いやいやこれは固定で、と思うこともある。
そもそもセックスがBLにおいて常に必須なわけではないし、セックスしないBLも、左右決めないカップリングも大好きだし、そういうBLを愛しているオタクがたくさんいることも知っています。そのあり方を否定したり、無視したりしたいわけではないのです。(もちろんセックスも大事な側面ではあるんだけど。だからこんなに延々考えたりしてんだけど)

 

これまで散々挿入行為を中心としたセックス・ポジションのあれこれについて書いてきましたが、しかしそもそもセックスに常に性器の挿入ないし結合が必須なわけではありません。

 

松浦理英子という小説家がいます。
わたしは彼女のことが大好きなんですけど、彼女は「性器結合中心主義」に批判的な人です。

どういうことかというと、社会でイメージされるセックスがあまりに「性器の結合」を中心化していることを問題視して、それを「性器結合中心主義」と呼んで批判し、性のイメージの拡張や再編成を試みた作品やエッセイを書いている作家さんなんです。(わかりやすいところで言うと『優しい去勢のために』というエッセイや『親指Pの修行時代』という小説で描かれているので、よければ読んでみてください。)*3

 

わたしは彼女が大好きなので、彼女の言う「性器結合中心主義」は確かによろしくないな、ていうかセックスや性欲のありようを性器的なものに切り詰めるのは嫌だなという思いもあり、そもそも人間性や人間関係の解釈がセックス・ポジションの解釈に直結しそれどころか前者が後者に集約していくのを見るたび、やっぱり人類そろそろ「セックス」を再び発明し直した方がいいのでは?と思ったりもするし、でもカップリングによってやっぱ割にこだわっちゃうんだよなという部分もあり、まあ別にこだわってもいいじゃんな、と思ったりもする。

正直、白黒はっきりした結論はありません。


というのも、様々な人がいて、様々な欲望の形があり、それは途方もなく複雑で、ストレートなロジックで綺麗に理解できるものではないのだから。

ただ、少なくとも考えるべき複雑さがそこにはあると思います。BLカップリング論争はまあぱっと見ただのオタクの論争ですけど、そこには性と人間関係を巡る根本的な問題が含まれているように(わたしは)思う。なのでできる限り言語化してみたいなと個人的に思っています。以上です。

*1:ちなみにアンドレア・ドゥオーキンという人は、『インターコース』という本の中で挿入行為を「侵害」として捉えています。『インターコース』はざっくり言うと、男女間セックスにおいて女性が受動的な立場に置かれることがいかにしんどいものかという話をしている本です。

ただ、ドゥオーキンの議論は「身体構造上全ての権力関係があらかじめ決定される」と受け取られかねないものであり、「イメージのリアリティ」で述べた通り、あまりにセックス・ポジションと人間関係を短絡的に結びつけてしまっている部分、色んなことをあらかじめ決定されているものとして捉えすぎている部分があってかなり問題含みではあります。しかしそれはそれとして、「ある社会の中で、ある女性が性的受動性をどれほどしんどいものとして捉え得るか」のドキュメントとして非常にパワフルな本だとわたしは思います。 

*2:ジェンダー関連のBL論は原因と結果をあまりにストレートに繋げすぎており、欲望の表出の複雑さを考慮に入れられてないのでは、とわたしはいつも思っていました。

*3:ちなみに松浦理英子の『裏ヴァージョン』という小説は、10代の頃からの親友でBL的な妄想をシェアする思春期を過ごし20代はすこし距離が出来てでも再開して共に暮らし家賃代わりに小説を書く、という40女2人の物語です。BLオタク女性間の絆に関する物語として本当に素敵なので、これもおすすめさせてください。