「ねじれた表現」としてのBL

BLには女性ジェンダーの苦しいあれこれが刻み込まれており、でもそれはわかりやすくストレートな怒りや抗議の表明ではなくてたとえば受け攻めや性暴力や生殖関連言説の描き方といったところに歪んだ形で表出していて、その歪みをわたしはしんどがりつつ愛してきたんですよ、というクソ厄介なオタク話。


・反応/欲望の複雑さ

人間の反応ってすごく複雑なもので、嫌なことや苦しいことがあったとしてもそれを「嫌だ」「苦しい」という風にすぐさま表現できるわけではない。と、わたしは思います。

 

わたしはたとえばお葬式の時に泣けない子どもで、少しも悲しそうなそぶりを見せることができず、親戚から非難の目を向けられた記憶があります。お葬式に限らず、わたしは他人にわかる形で感情を表現することが苦手な子どもでした。幼い頃は、いつも誤解されている、わたしの感じていることがいつも誰にも理解されない、と強く感じていました。
でも思い出してみても、泣けなかっただけで「本当は」悲しかったのか、それとも本当に少しも悲しくなかったのか、わからないんです。ただ、「勝手に目に見える範囲でだけで判断し、決めつけられ、責められた」ことを理不尽だと思ったことは覚えています。
まあそういう個人的な実感があり、わたしは「目に見える範囲だけで、笑っているから楽しいんだろう/泣いていないから悲しいんだろう、といった形でその人の感じていることを限定的に理解するのは暴力的である」と思っています。

 

人は楽しそうにしているからといって本当に楽しいとは限らないし、悲しそうにしているからといって本当に悲しいとは限らない。

 

そもそも、自分が嫌だと感じていること、苦しいと感じていることを、その人自身さえ知らない時ってあると思う。というか、人は自分の感じていることをいつも即座に適切に自覚して、他人にわかる形で表現できるわけではない。
外から見ると、まるで不可解な反応をする人もたくさんいます。
傷ついている時に、「傷ついた、悲しい」と他人からも明確にわかる形で表現できる人もいれば、何もかも冗談にして笑い飛ばしてしまおうとする人もいる。わざとマッチョに「強く」見せようとする人もいるし、苦しい状況を「自分のもの」と認識することができなくて、ひどく抽象的なことしか言えなくなる人もいる。人間の反応はあまりに複雑です。

 

そしてより一層複雑なことに、その「反応」がポーズなのか否かも究極的には判断しかねる。
要するに、他人からはもちろん自分自身でさえも、単なるポーズ(笑い飛ばそうとしているだけ、マッチョに見せかけているだけ)で「本当は」苦しんでいるのか、それとも実際に少しも苦しくないのか、わからなくなることってある。「本当に」自分が何を感じているのかって、自分自身でさえもうまく掴めない部分があると、わたしは思います。

 

そういう世界観で生きているのと、個人的な諸々の実感のせいもあって、わたしには「怒りや悲しみや苦しみがわかりやすい形で表出できない」状況や表現に対するオブセッションがあります。

ねじれた表現。「苦しい」と言うのではなく、むしろ快楽として楽しんでしまうような表現。たとえば、女性に対する性暴力が溢れる世の中で当の女性たちにBLやTLのレイプ・ファンタジーが喜んで消費されている状況それ自体へのオブセッションオブセッションですから、否定したいわけでも肯定したいわけでもない。


人間の反応は複雑であり、人間の欲望もまた複雑です。わかりやすいストレートなロジックで理解できるものばかりではないし、ストレートな表出が全てではない。

 


・「ねじれた表現」としてのBL文化

BLもわたしにとっては「ねじれた表現」です。わたしにとって文化現象としてBLが興味深いのは、何よりもねじれているからなんです。

 

BLには、女性ジェンダーの苦しいあれこれがねじれた形で表出している(ようにわたしには思える)。

 

そしていつもイマイチ理解してもらえないんだけど、わたしは「ねじれ」それ自体に愛着があるので、「よりストレートな怒りに接続すべき」という議論にはあんまり乗れません。


たとえばBLオメガバースにおけるジェンダー観のひどさへの批判とか、そういうの、言いたいことはめちゃくちゃわかる。でもあまりにもストレートな批判だなと思ってしまう。「ものすごく保守的なジェンダー観を持っていることが丸わかりの人間が、にも関わらず異性愛ハーレクインとかではなくBLオメガバースを読んだり書いたりしている」事態が孕む奇妙さ、ねじれをストレートな批判で矯正してしまうことに抵抗を感じる*1

しかしわたしはフェミニズムの議論を非常に重要だと思っている人なので、フェミニズム的な批判を軽んじる人には普通にガンギレしてしまう。めちゃめちゃ厄介ですね。


木原音瀬という「厄介」な作家

とはいえわたしの「厄介さ」にヒットする作品というものもあり、それはたとえば、我らが商業BL小説界の巨匠、木原音瀬の作品です。

 

商業BL小説は漫画と比べて市場規模がマジで小さくて、作家もマジでいなくて、10人くらいのすごい作家がものすごい冊数出して何年もずっと支え続け、同じ面子がちるちる年間ランクを何年も支配しているみたいな世界なんですけど、木原音瀬も95年のデビュー以来長年大量にBL小説を出し商業BL小説界を支えてきた作家の一人です。

 

木原音瀬は商業BL小説家にしては珍しく、講談社のようなBLレーベルではないところにも本が入ってます。
ちなみに講談社文庫で『箱の中』『美しいこと』『秘密』といった作品が読めます。
個人的に大好きなのはCOLDシリーズですが、講談社文庫で気軽に読めるもので言うと、オススメは『美しいこと』かな。女装姿である男と恋に落ち、実際の性別を言えないまま付き合うが……という話で、「男が好きなんじゃない、お前が好きなんだ」という一昔前のBLで死ぬほどよく見かけたBL定型文(現在はあまり見かけませんが)を逆手にとった批評性を感じさせる、良い小説でした*2

 

最近はBLに限らず一般文芸を書いてもいて、2017年に集英社から出た『ラブセメタリー』はペドフィリアの男性たちを描く連作短編集でした。冒頭には、ペドフィリアの男性がゲイ男性に向かって「君は僕と自分を比較して、自分の方がまだマシだと思ってる」と言い放つ短編が配置されています。BLではなくても木原音瀬を読み続けよう、と思わせる本でした。

 

ところで木原音瀬の描くBLでは、割と凡庸でみみっちい人間と、子どものように無垢だが決定的に何かが欠けてしまっている人間(アダルトチルドレン)がよく出てきます。(たとえばCOLDシリーズ、『箱の中』『檻の外』『秘密』『こどもの瞳』etc)
このみみっちい人間のみみっちさが、本当にしょうもない。萌え的に可愛いとも思えない。普通に嫌な人間で、その嫌らしさを書くのが木原音瀬は非常にうまい。あと無垢で決定的に何かが欠けた人間も、その無垢さが尋常ではない。可愛いといより不気味。木原音瀬の描く人物は、リアリスティックな造型だというだけではない人間観の屈折をわりと感じる。

 

でも、木原音瀬ってBL作品だとすごく素敵なハッピーエンドなんです。
キャラクター造型やそれまでのストーリー展開から感じる屈託や人間の善良さに対する信頼感のなさ、厳しいリアリズムと組み合わさって、終わりだけ妙に浮いている気がする。なんだか歪ささえ感じるハッピーエンド。個人的にはその歪さがまた好きです。
非常に屈折した世界観や人間観を持っているけど、BLでなら人間の善良さや幸福を信じられるのかな、と思う。そんな屈折がとても好き。

 


木原音瀬アオイトリ

BL文化のある種の「ねじれ」のある側面は木原音瀬作品にも刻み込まれています。

 

たとえば、やっぱりBL文化にはかなり苛烈なミソジニー女性嫌悪)があります。
そういう意味で言うと、『箱の中/檻の外』なんかでの女性の描き方、いわゆる規範的な異性愛家族を描くときの木原音瀬の筆致からは、結構強烈な憎悪を感じる。ミソジニーと言うとなんだか作家を非難しているようですが、別に非難したいわけではありません。そうではなくて、木原音瀬は、女性ジェンダーをめぐる「呪い」のようなものを、意識的にか無意識的にかわからないけれど、強く感じ取っている作家さんなんだなということです。

 

そういう呪いのようなものを感じ取っている作家だからこそ書ける「ねじれた表現」というものがあり、木原音瀬オメガバースBL短編「アオイトリ」はわたしにとって大変興味深いものでした。

個人的には、オメガバースBLへのストレートな批判(=保守的なジェンダー観への批判)と、そのストレートさでは矯正しきれないBL文化の内包する「ねじれ」の、二つのベクトルを調停するような作品だなあと思う。

 

 

  

アオイトリ」はざっくり言えば、女性の恋人がいて異性愛者でオメガではなくなることを強く希望していたオメガの男性が、アルファの男性にレイプされ、望まない妊娠をしてしまう、という物語です。


この苦しみがとにかく尋常ではない。

主人公は自身の妊娠を受け入れることができず、予定日を覚えることもできません。生まれたら生まれたでノイローゼになってしまいます。

さらに追い打ちをかけるように、それまで軽かったはずのオメガの性質が制御不可能なまでに重くなってしまいます。ヒートに悩まされ、まともに生活することもできません。解決する方法は再び妊娠することだけです。一度妊娠したら終わり、ではないのです。自分の意思に反して自分を犯し、妊娠させた当の人間に、際限なく犯され、際限なく望まない妊娠を繰り返すしかありません。これが牢獄ではなくてなんなのか?

 

このオメガの主人公にとって、妊娠能力は圧倒的な呪いと牢獄以外の何物でもありません。
要するにオメガバースの、リアリティとして考えると地獄というほかない「犯され孕んでしまう性」の苦難って、BLマジック(快楽や運命や愛や母性)によって誤魔化されいつもハッピーエンド♡になっているのだけどまあ普通に考えて地獄だし牢獄だし呪いだし奴隷だね……ということを余すことなく描くのが「アオイトリ」です。どうでもいいけどこんな話にこんなタイトルつける木原音瀬、大好きすぎるな。

 

そしてこの作品がすごいのは、「オメガの男性は女性と身体構造が違うため中絶不可能」という独自設定が追加されてることです。

 

あの「犯され妊娠する性」の苦難を増大拡大させ盛り込むオメガバース設定に追加して、さらにそこまでやるのか〜〜〜とわたしは心底びっくりしてしまった。

「男性は女性と身体構造が違うので中絶できない」って、本当にすごいですね。

ありとあらゆる場面で、とりわけ生殖をめぐって言われ強固な枷となってきた「男性と女性は身体構造が違うので」をこんな風に使うんだなあ、「犯され孕む性」の苦難をBLで男にやらせるにあたってこんな風に呪いをかけるんだなあ、と驚嘆せざるを得ませんでした*3

 

木原音瀬の「アオイトリ」は、一見すれば多くのBLオメガバースが内包する「保守的なジェンダー観への無批判さ、レイプされても望まない妊娠をしても最終的には運命や愛やら何やらでハッピーエンド♡になりがちであるという状況」への痛烈なカウンター(ストレートな批判)のようだけど、そのような真っ当な批判というだけには留まらない、いささか過剰なまでの「呪い」もまた、同時に感じるものです。

 

要するに木原音瀬アオイトリ」には、いわゆる妊娠出産能力をめぐる女性ジェンダーの苦しいあれこれが刻み込まれており、でもそれはわかりやすくストレートな怒りや抗議の表明ではなくて、歪んだ形で表出している。
たとえば「男性は女性と身体構造が違うので中絶できない」という独自設定として。
端的に言うと、そこからは容易には決して矯正されえない屈託を感じる。あまり正当化できないような暴力性もある。そしてわたしは、そのようなねじれた表現が好きです。

 

文化現象としてのBLは、男性社会の抑圧に対する怒りと裏返しになった女性ジェンダーへの苛烈な憎悪や否認やら何やらがごちゃごちゃ混ざり合っている。でも同時にやっぱりもっと単純に快楽をもたらすポルノでもあって、苦しみも何もなくただ単に萌えるものでもある。どちらか一方ではありません。BL文化にはどちらもある。そこでは「ねじれた表現」なのかそれとも単なるポルノなのか、見分けがつかないほどぐちゃぐちゃに混ざり合っていると思います。


BL文化のそういうめちゃくちゃさが好きです。危うさが好き。しんどいけどやっぱり好き。こんなことだらだら書いてるわたしが何より一番ねじれてて厄介なのかもしれないけど。まあこれからも厄介なオタクとして生きていきます。

*1:フェミニズム文脈でBLを論じている本として、たとえば溝口彰子(2015)『BL進化論』があります。ざっくり言うと、女がBLを求めるのは家父長制によって抑圧されているためであり、「女の体」ではなし得ないファンタジーが仮託されているのがBLである、といった話がされています。めちゃくちゃストレートな議論ですが、フェミニズム文脈でどう議論されているかがわかるので一読をお勧めします。

*2:「男が好きなんじゃない、お前が好きなんだ」という表現ですが、この表現については色々と思うところがあります。

ひとつには、死ぬほどよく見かけるほど「性別ではなく個人が好き」というファンタジーがBLオタクの女性たちに求められていた、ということもまた「ねじれた表現」のひとつなのかなということです。「性別ではなく個人を好きになる」というファンタジーを求めてやまないほど、女性たちは「性別ありき」で見られているという圧迫感を意識的であれ無意識的であれ抱えていたのかもしれない。その圧迫感が、こういうねじれた形で表出していたのかもしれない、と思います。

もうひとつには、単純に「同性愛」であることを否定している表現、同性愛をどこか低いものとみなしている偏見が垣間見える表現ではないか、ということです。「同性愛じゃなくて愛なんです」といった主張は、今も時折見かけるもので、わたしは問題のある表現だと思っています。これについては以前もブログで書いたので、よければ読んでみてください。

ちなみに「同性愛じゃなくて愛なんです」と言いたがるオタクが一定数見られるのには、単に偏見を持っているから、というだけではないとも思います。狭義の「恋愛」にあてはまらない物語を求めて同性愛フィクションを好むようになった、という人はたくさんいます。ではそもそもどうして「狭義の恋愛に当てはまらないものを求めるのか」「どうして同性愛フィクションだと狭義の恋愛ではないように思えるのか」といったことに関しても、以前ブログに書いたので、よければ読んでみてください。(記事では百合作品を題材にしていますが、BLのオタクにも共通していると思いますし、取り上げている作品を知らなくてもそれほど問題なく読めると思います)

*3:女性差別の「根拠」としてよく持ち出されてきたのが「男性と女性の身体構造の違い」です。体のつくりが違うから仕方ないんだよ、という風に正当化される差別のあれこれに反論してきたのがフェミニズムですが、「アオイトリ」はまともに反論するのではなく、フィクションの中で呪いをかけています。「ねじれた表現」だな〜と思います。