マジョリティと責任の問題

これはわたしの観測範囲の問題かもしれないんですけど、最近のインターネットを見ていてよく思うのが、「マジョリティである」と認識することの難しさです。

ひとはいろんな属性を同時に持っているので、ある場面ではマジョリティだけど別の場面ではマイノリティである、といったことはあります。

でも、それがわからない人がすごく多い気がする。ある文脈ではマジョリティになっているにも関わらず、自分のことをいついかなる時も絶対マイノリティだと思っていて、批判されると「また口をふさがれた」みたいな被害者意識を強めてしまう、みたいな光景をめちゃくちゃよく見る。その被害者意識が攻撃に転じる。で、すでに抑圧されている人をさらに傷つけてしまう。そういう、最悪な負の連鎖があらゆるところで起きている気がする。

 

多分それって「マジョリティである」と認識すること、それにまつわるあれこれを引き受けることが本当に難しいからっていうのも、理由のひとつにあるのかなあと思います。そういう意味で、最近読んだ雑誌『現代思想』2019年1月号の、岸政彦さんと信田さよ子さんによる「マジョリティとはだれか」という対談がすごく参考になるな〜と思いました。

今の時代にとって結構大事な話をしていると思ったので、以下は自分の関心に沿って簡単なまとめ&メモです。ここで紹介しているのは一部分だけだし自分のメモも多いので、興味を持った方はぜひ原文を読んでみてください。

 

 

・マジョリティとは何か

岸先生が、マジョリティが現れるのは「つねに引きずり出される瞬間」(p215)であると言っています。マジョリティは、無色透明な個人として、普段は何も考えずに生きていられます。だけど自分の立場性に気づかされる瞬間があり、それは最も端的に言って、マイノリティと対峙した場面です。岸先生は例として、性暴力があったときに、実際に加害行為をしていないとしても「お前は男だ」として、加害者のあるカテゴリーのなかの一員として急に引きずり出される感覚がある、と言っています。

 

・個人であること、社会で生きていること

これはわたしの個人的な意見ですが、「自分は直接的加害者ではないにも関わらず、加害者のあるカテゴリーの一員として引きずりだされてしまう」という話は、より一般化して言うと、個人であると同時に社会で生きているということの難しさだと思います。

わたしたちはそれぞれユニークな「個人」であると同時に、ある社会的な属性を背負っています。先の例で言うと、岸先生は他に代わりのないたった一人の個人ですが、同時に「男性」という社会的カテゴリーに含まれてもいます。だから個人として何もやっていないのに、属性によって批判の対象になってしまうこともあるかもしれない。マイノリティ、被害者側も同じです。個人としては何もやっていないのに、属性によって差別されてしまうかもしれない。属性は個人を構成する要素のひとつで、切り離すことはできません。でも個人として、その人(マジョリティであれマイノリティであれ)は特に何もしていないのも確かです。だから色々難しい。

 

・マジョリティの「冤罪恐怖」

今までマイノリティ関連の話だと、マジョリティの「被害者意識」(白人差別、みたいな話)がよく語られてきたように思いますが、この対談で面白かったのが、それは被害意識でも加害妄想でもないと言われていることです。

たとえば、実際に加害行為をしていなかったとしても、「お前は男(マジョリティ側、加害者側)だ」と引きずりだされてしまう。痴漢をしていなかったとしても、疑惑を持たれたら「やっていない」と言うしかない。でもおそらく本当に痴漢をしている人だって「やっていない」と言う。実際にやった場合でもやっていない場合でも出る言葉が一緒になる、そのことに恐怖を覚える。要するに、マジョリティに「冤罪の被害者妄想」があるんじゃないか、と言われています。「自分がやったことのないことで責任を取らされる、しかも無限に取らされるのではないかという根拠のない恐怖心が、非対称的な構造のなかでのマジョリティの一つの暴力を駆動している原動力なのではないか」(p215)。

 

・倫理的強迫観念

余談ですが、対談の中で語られてる「冤罪の被害者妄想」は「それまでは無色透明だったマジョリティ」の話だと思うけど、差別問題に何らかの形で関わっている人にはまた別の強迫観念がある気がします。

わかんない人には意味不明だと思うけど、「あらゆることに責任を負っておりある不正義に反対したらまた別のあれこれにも反対しなければならず、そうしないと義務を怠っている気がして罪悪感に駆られ、結果次から次に起こるあれこれにずっとキレまくる」 みたいな倫理的強迫観念ってあるんですよ。それはある意味、「加害者」(マジョリティ)になることへの神経症的なまでの恐れでもある、のかもしれない。

 

・責任の範囲

無色透明だったマジョリティの「冤罪の被害者妄想」と次から次に起こるあれこれにずっとキレまくる人の「倫理的強迫観念」、これらはどちらも、責任の範囲がわからないことへの恐れなのかもしれないな、とこの対談を読んで思いました。

マジョリティ/マイノリティの問題は、自分が加害行為をしていなくても、自分が持っている属性によって何かしらの「責任」が発生してしまうようなところがある。しかもマジョリティ/マイノリティの境目は実は曖昧で、ある場面では抑圧的なマジョリティに対峙するマイノリティだったとしても、別の場面では自分が非難される対象になったりする。その曖昧さ、不明瞭さが恐怖の一因でもあるのかもしれないなと思いました。

そしてその責任の範囲の不明瞭さへの恐怖心は、過剰な防衛反応、被害者/マイノリティに対する攻撃へと転じてしまうことがあります。岸先生が言っていますが、「無限に責任を取らされるのではないかという恐怖感が、責任を全否定してしまうところに走ってしまうことがある」(p216)。

 

・「責任の取り方」のフォーマット

そこで、DV加害者のプログラムに関わっている信田先生は、マジョリティや加害者の「責任の取り方」を具体的に示すことを提案されています。

無制限に責任を取らされることへの恐れが、自分たちを加害者化したマイノリティに対する攻撃に転じてしまう、という悪循環を断つために、責任の範囲をある程度決めてやることが必要なんじゃないか、と。「こういうフォーマットでこういうことをやれば最低限の責任をとったことになるよ、ということを誰かが示せばよいのではないか」(p216)ということを言っている。なるほどな〜と思いました。

 

・被害者の感情

信田先生の提案について、岸先生は、それはマジョリティにとっては良いだろうけど、そうした解決はある種の被害者からすると一番耐えられないところなのではないか、と言っています。無限に責任を負わせたい、という感情がやっぱりあるだろうと。

できる範囲でプラグマティックに責任を取りました、終わりです、って言われたらたまらないと思う人は絶対にいる。そりゃそうだよねと思う。でも信田先生の提案もそれはそれで実際的にはベストだと思う。

 

・全体を通しての雑感

上でメモした以外にも、岸先生の沖縄との関わりにまつわる「マジョリティとしてマイノリティとどう関係していくか」みたいな話が対談の後半にはあって、それもすごく大事な話なんですけど、今回はひとまずここまで。

ざっくり言って、マジョリティであることとその責任の取り方をきちんと考える、というのは、自分の輪郭を見定めることだと思いました。

わたしという人間はこういう場面ではこういう立場性を有していて、こういう責任が発生する、どういう責任の取り方ができるか考える、ということをしっかり場面場面で認識していくこと。

無制限の責任に怯えてしまう心理はある。マジョリティの難しさがある。だからこそその難しさを直視した上で、できることを考えていくし、その解決策の困難さも直視していく。簡単に言えば対談で言われているのはそういう話です。

そしてそれは結局、「自分の輪郭」の解像度を上げていくことだと思うんです。

 

ただ、この雑誌に載っている他の対談や論文を読んでいて、現代では自分の輪郭を見定めるのがそもそも難しい人がすごく多いのかなとも思いました。まだうまく説明できないんだけど、直観的に。「自分の輪郭」なんてわからないし、そんなものはなくしてしまえ、という感覚が強いのかなって。それは時代的な、構造的な問題でもあり、単に自分に向き合うのが怖い、どんな程度であれ責任なんて負いたくないみたいな話でもあり、どちらでもあるのかなという気がした。この辺はそのうちもうちょっと考えたいです。