ディズニー映画とポリコレ、それはそれとして

ディズニーは呪いをかけるのと呪いを解くので二度稼いでる。
こう言ったからといって、別に呪いを解くことを否定しているのではないし、呪いを解かれて勇気付けられることの意義を大切に思っていないわけでもない。でも、別の角度から見たらやっぱり二度稼いではいるんだよね。という話。

 

(1)ディズニー映画とポリコレ

近年のディズニー映画がいわゆる「ポリコレ」で評価されているのは、おそらくそれなりに知られていることです。
ベイマックスの日本の描写、ズートピアにおける差別の寓話、レリゴーと高らかに歌うアナ雪、ただ塔のてっぺんで王子様を待っているだけではない勇敢なラプンツェル、王子様を頼ることなく自ら大海原に飛び出して行ったモアナ、エトセトラ。
もちろん「ポリコレ」という言葉が膾炙したのが比較的最近だったというだけで、「ジェンダーや人種をステレオタイプに表現するのではない物語」という意味で言うなら、ディズニーは90年代からずっと努力をしています。悲劇のヒロインではない人魚姫のアリエル、白人ではなく行動的なプリンセスのジャスミンポカホンタスにムーランに、その努力の蓄積は言うまでもありません。
90年代に生まれ、努力を始めたディズニー映画とともに育ってきた人間として、ディズニー映画に感謝する気持ちは十分にあります。白雪姫もシンデレラも好きではあったけれど、同時ににアリエルやジャスミンがいてくれてよかった、と心から思います。

 

というのも、ステレオタイプな物語――たとえば「女の子=王子様に救われるお姫様」というジェンダー固定的で異性愛主義的な物語や白人ばかりが活躍するような物語――は、ある意味「呪い」だからです。
こういう属性だったらこういうもんでしょ、と様々な物語の中で繰り返し言われることは、その人を縛る呪いになる。
だからステレオタイプではない物語は、「好きにしていいんだよ」という承認の意味があり、呪いを解くものです。

 

ディズニー映画はかつては「呪いをかけている」と批判されていましたが、90年代以降のディズニー映画は呪いを解くような――とはいえ不十分さもまた繰り返し指摘されてきましたが――物語を描いてきたことは確かです。少なくとも努力の姿勢を見せてはきた。それがどれほど不十分だとしても、見せもしないよりはずっとマシでしょう。

 

近年の「呪いを解く」ディズニー映画によって、多くの人が――特にかつて呪いをかけられた人が――勇気づけられ、歓迎していることを知っています。ちなみにわたしはズートピアは大嫌いでしたが、マレフィセントとアナ雪には熱狂しました。王子様とお姫様のカップリングよりも明白に強いものとして女性同士の絆が描かれていたからです。

 

だからわたしは90年代以降のディズニー映画が呪いを解こうとしてきたことを否定したいわけではないのです。その上ででどうしても思ってしまうのです。ディズニーは呪いをかけるのと呪いを解くので二度稼いでる。要するに「呪いを解く」ことはお金になる、のだと。

 

 

(2)模範解答としての『くるみ割り人形と秘密の王国』

おととい、ディズニー映画の新作『くるみ割り人形と秘密の王国』を観てきました。
画面はずーっと可愛くて、安定のディズニークオリティだったのですが、個人的にはあまりにもいわゆる「ポリコレ」的に「模範回答」に思えて、それが引っかかってます。
と、書いたところで急いで付け加えさせてください。「模範回答」であることを悪いと言いたい訳ではありません。「ポリコレに配慮するとつまらなくなる」といった話がしたい訳でもありません。これだけは明確に言っておきますが、そのような話をしたがる人間をわたしは心の底から軽蔑しています。


という訳で、もしもこの記事を読み始めた人の中に「呪いを解く」ことをそれほど重要だとは思えない/「ポリコレ」なんてくだらない、といった考えを抱いている人がいたら、今すぐブラウザを閉じてください。わたしはあなたに都合の良い話をするつもりはありません。

 

また、物語を読み解くうえでジェンダーや人種といった問題を「持ち込む」ことに反対している人もブラウザを閉じてください。物語は現実社会の中で生み出され、現実社会の人間に受け止められるものであり、そこに現実の何かしらの反映が見られるのは当然のことだからです。物語の中で起きることはもちろん、現実の事象とは異なります。けれども現実と全く切り離されている訳ではなく、物語と現実は直線的な対応関係ではないにせよ、やはりある種の関係を結んでいるものです。

 


さて、様々な留保と注意書きの上で言わせてもらいますが、くるみ割り人形と秘密の王国』は、いわゆる「ポリコレ」的に模範回答に見えます。
まず主人公の少女は機械が得意です。要するに理系なんですね。「女性=感情的で論理的ではない=数学その他の理系科目が苦手」という悪名高いステレオタイプを打ち破っています。そして彼女は勇敢です。自ら兵隊を率いて戦地に向かう、強いプリンセスです。男性の兵隊達が恐れをなして立ち止まると、彼女はそんな彼らに対する苛立ちを露わにし、先陣を切ります。「王子様が救ってくれるのを待つか弱いお姫様」の影はまるでありません。

 

そもそも、この物語には「王子様」が存在しません。
いるのは彼女と行動を共にするキャプテン(大尉)であり、彼は黒人です。ついでに言うと、主人公の少女が冒険を始めるきっかけを作る叔父も黒人です。物語中に登場するバレリーナも黒人です。というか、画面で多くの人間が映ると、パッとわかる形で肌の色が白い人間ばかりではないと気づくことができます。白人だけが活躍する物語ではないのです。

 

むしろ、今まであらゆるヒエラルキーの頂点に君臨してきた「白人男性」は、主人公のお父さんを別として、この物語では特に主要な役割を与えられていないようです。他に目立った形で出てくる「白人男性」は、ギャグのちょい役のような形でしかありません。

 

ちょい役、のような形しか与えられてこなくて、人間らしい感情を描写されてこなかったのは、これまではマイノリティでした。トロフィーガール、マジカルニグロ、それらはマジョリティ(たとえばシスヘテ白人男性)に都合の良い形でしかない、人間らしい感情を描写されることのない役柄であり、マイノリティのステレオタイプな表象として長く批判されてきたものです。しかしそれがここでは、白人男性というマジョリティに与えられる役柄になっている。
くるみ割り人形と秘密の王国』を観ながらわたしはずっと、これまでのマジョリティとマイノリティの構図が(少なくとも表象においては)見事に反転している、ということについて考えていました。

 

(ただ、ひとつこの「模範回答」にケチをつけるなら、悪役の女性の描き方かなあと思います。悪役の女性において、いわゆる「女性的な性質」が際立っているように思えたのが、わたしには引っかかりました。とはいえ、主人公も味方も女性ですから、大きな減点にはならないだろうとも思います)

 

 

(3)表象におけるマジョリティとマイノリティの反転

これまでのマジョリティとマイノリティの構図が(少なくとも表象において)見事に反転している、という映画は『くるみ割り人形と秘密の王国』だけではありません。
そういえばわたしは、今年評判になった別の映画『シェイプ・オブ・ウォーター』を観た時も同じような感想を抱いたのでした。あの映画では、主人公は障害を持った女性であり、彼女の友人は黒人女性とゲイ男性であり、わかりやすくマッチョなシスヘテ白人男性が悪者です。あの映画を観ながらわたしは、あまりにも自分の欲望を的確に反映した物語になっていることに、戸惑いを感じていました。

 

簡単に言うと、わたしはいわゆるマッチョな社会的強者(たとえばエリートのシスヘテ白人男性のような)に良い印象が抱けない人間です。そういう人を「悪者」と認識しがちです。そういう「悪者」の活躍する物語よりも、そのような「悪者」に虐げられる諸々の社会的に弱い立場にいる人々が救われる物語の方が、ずっと好きです。
もっと露悪的に言い換えます。
エリートでマッチョのシスヘテ白人男性がめちゃくちゃに悪者で、その人生がめちゃくちゃになるところを見るとわたしは嬉しい。

 

シェイプ・オブ・ウォーター』を観た時の戸惑い、というか居心地の悪さは、ある種のルサンチマン的欲望が真正面からメインストリームに肯定されているように思えたこと、またそれが極めて図式化しやすい形で行われていること、です。
「エリートで差別主義的な白人シスヘテ男性」と対置される「障害を持った女性」「黒人女性」「失職中のゲイの画家」、これらはあまりにも記号化しやすい表現です。そしてこの明快な図式を持った物語が、アカデミー賞で4部門を受賞し、ゴールデングローブ賞でも2部門を受賞し、思い切りメインストリームで評価されています。(属性の表象以外にも当然切り口が様々にあり、これらの賞で評価されたポイントも様々だろうことはわかっていますが、とはいえひとつの基準として)

 

呪いを解こうとするディズニー映画は、その総合的クオリティの高さのためということはもちろんですが、世界的に商業的成功を収めています。商業的成功だけではなく、評価としても高い。シェイプ・オブ・ウォーターも同じです。
もちろん呪いを解いていることだけが評価の、商業的成功のポイントなのではありません。呪いを解きつつ、同時に総合的なクオリティもあるからこそ(と同時に、あまりにもわかりやすい図式であること、をわたしは付け加えたいのですが)、評価されているんです。

 

しかし、「呪いを解く」といってもその描き方には様々な形があり、すべてが評価されているわけではありません。ポリコレ=評価される、ということではない。旧態依然とした価値観により不当な評価しか得られていないものも、もちろんあります。

そもそも表象の上でどれほどポジティブに描かれたとしても、現実には様々な問題が依然としてある中で、表象の上での「反転」を語ること自体が馬鹿馬鹿しい、図式的すぎるだのなんだの文句を言うのではなく、ただ純粋に喜ぶべきなんだ、という意見も当然ありうるでしょう。実際その通りだとも思います。

 

ただ、(少なくとも表象において)「呪いを解く」ことはもう別に「反体制」ではない、というのもまた、明らかなように思えます。なにしろ巨大資本ディズニーが積極的に取り組んでいる。ディズニーが商業主義を捨てるはずがありませんね。アカデミー、ゴールデングローブ、権威からのお墨付きももらえます。

 

繰り返します。ディズニーは呪いをかけるのと呪いを解くので二度稼いでる。要するに「呪いを解く」ことはお金になるのです。

 

 

(4)結論とも言えない何かとしての「それはそれとして」


――しかし洋画やディズニーがどんなに「呪いを解く」ことに取り組み、またそれが実際にお金になっているのだとしても、日本はまだまだじゃないか。「ポリコレ」で検索した時のインターネットがどんな地獄を見せるかは言うまでもない。洋画やディズニーだって不十分であり、ひどいものもたくさんある。そもそも現実があり得ないほどひどい。ポリコレも何もあったもんじゃないほどひどい現実がそこにある。そんな状況下で「呪いを解く」ことを絶賛する以外のことをするなんて、しかも「図式的すぎる」だなんて微妙な話をして一体何になるんだ、単なるあなた個人の感性に過ぎないじゃないか、そんな馬鹿げた話で呪いを解かれ、救われたと感じている人の気持ちに水を刺すようなことを言うなんて――

 

……と、こんな反論の声が聞こえてきそうだなと思います。
そしてその反論は、全て正しいと思います。

 

こんな風に言っていると、一体あなたは『くるみ割り人形と秘密の王国』を批判したいのか、それともしたくないのか、どっちなんだ、と呆れられそうです。
答えはどちらでもあり、どちらでもないのです。

 

こういう時代の難しいところはそこです。

一方ではいかにも旧態依然としたひどい現実があり、他方では「先進性」らしき何かがあるように見えます。巨大資本ディズニーが呪いを解く映画を作っている一方で、現実はますますわたしたちに呪いをかける力を強めているように思います。ツイッターでは「フェミニズム」の声が大きいように見える一方で、唖然とするほど露骨な差別がまかり通る現実があります。先進性のような何かと同時に、信じがたいほどグロテスクな保守性の混合があります。何かを言うことは難しい。


でもわたしは「それはそれとして」と言うのが口癖です。
つまり、ある側面から見たらAだけど、Aであることを否定しているのではなくてでも別の側面から見たらBでもあるよね、という話をしたがる傾向にある。だけどそういう話をしてもあんまり理解されなくて、AかBかどちらか一方だと思われてしまうことが多い。わたしはそのことにずっと苛立ってきたけど、でも同時に、何かを言った瞬間にAかBかどちらかになってしまう側面もあるのかな、とも思います。

 

「呪いを解く」ことを否定したい訳ではなくて、それは非常に大事なことだと思っているけど、それはそれとして「お金になる」んだなあとも思っている。けれどもある状況下で、たとえば「呪いを解く」ことの大切さがあまり共有されていない状況で、そのような発言をすること自体が、「呪いを解く」ことを否定しているんだと(本来の意図はそうでなかったとしても)受け取られ、そのような効果を発してしまうのかもしれない、と思います。

 

だけどわたしは「それはそれとして」という話をしたいと思ってしまうのです。難しいとは思うのですが、それはそれとして。