『やがて君になる』あるいは異性愛主義/百合の可能性について

 『やがて君になる』という作品は、「恋愛感情がわからない」ことに不安と孤独感を覚えている女の子(侑)と「恋愛感情は理解したけれども片想いだけしていたい」という女の子(燈子)のお話です。
 やが君において、人を好きになる気持ちは「当たり前」でも「説明不要」でもありません。言うまでもなくそのことがこの物語の大きな魅力であり、人々に支持される理由のひとつです。
 ただ、だからと言って「恋愛」にならないのではなく、むしろやが君の主眼は通常の恋愛漫画よりも「なぜそこに恋愛が生じるのか」を掘り下げて丁寧に描くことで、そのために「恋愛がわからない」「片想いだけしてたい」などの要素が登場するのであり、その意味で紛れもない「恋愛漫画」なんだと思います。

 

 ところで、恋愛感情が「当たり前」でも「説明不要」でもない状況で「恋愛」する様を描くことは、百合をはじめ同性愛表現が支持される時の大きな理由のひとつでした。


(1)同性愛表現と「恋愛」

 百合ナビに掲載されたインタビューの中で、『やがて君になる』の作者・仲谷先生はこんな風に仰っています。

恋愛のお話は好きなんですが、人を好きになる気持ちがあまりにも当たり前で説明不要なものとして描かれている作品には、私はずっとどこかで引っかかりを感じていました。その点、同性愛を題材とした恋愛作品には、相手を好きになる理由や葛藤、あるいは理屈をねじ伏せてしまうような強い関係性が描かれていることが多い気がして惹かれていきました。

別に異性間の恋愛描写に根拠がとぼしいとか、同性間の恋愛描写にはより強度が必要だということは決してないので、自分の言っていることがおかしいとは思っています。ただ、私個人にとっては、同性愛を扱った作品が、物語で描かれる恋愛感情に納得を与えてくれるものだったという体験があるのは仕方のないところです。

 「同性愛を扱った作品が、物語で描かれる恋愛感情に納得を与えてくれるものだった」という仲谷先生の意見と概ね変わらない意見を持つ人の数は、決して少なくないと思います。


 仲谷先生はきちんとした方なので「別に異性間の恋愛描写に根拠がとぼしいとか、同性間の恋愛描写にはより強度が必要だということは決してない」という断りをいれていますが、そのような留保なしで露骨に差別的な発言をする人も割といます。


 たとえば、ちょっと昔には「同性愛作品の方が(葛藤を乗り越えた)真実の“愛”が描かれているんだ」みたいなことを言う人、かなりいました。まあ今でも残念ながら「差別による”葛藤”が醍醐味」くらいのこと言う人そこそこ見かけますね。
 とはいえ、その手の発言が差別的で問題があるという意識は共有されつつあり、同性間の恋愛に「必然性」「葛藤」が必要だといまだにおおっぴらに言う人はだいぶ減ってきたんじゃないかな、と思います。


 同性愛は「特別」でもなんでもなく、異性愛と何も変わらない、と言う方が本当はより望ましいのはわかっているんだけど……、という留保が仲谷先生の上記の発言からは見える。
 わかった上で、わかっているからこそ、仲谷先生は「私個人にとっては、同性愛を扱った作品が、物語で描かれる恋愛感情に納得を与えてくれるものだったという体験があるのは仕方のないところ」と言う。差別的な意図はないし、異性愛に対して同性愛を「特別」なものとするつもりもないけど、ただ自分にとっては何かが違うように感じられるのであり、それは「仕方のない」ことなんだ、と。


 でもどうして「同性愛を扱った作品が、物語で描かれる恋愛感情に納得を与えてくれるものだった」んでしょうか?


(2)差別からの分離

 上記の発言に見られる仲谷先生の倫理観を反映して、やが君に同性愛差別的な描写はほぼ全くありません。(作中で目に見えてホモフォビックな人物、おそらく佐伯沙耶香の中学時代の先輩くらいでは?)


 そもそも、一昔前の百合だったらたぶん「納得を与えてくれる恋愛描写」を描くにあたって「恋愛感情がわからない」「片想いだけしていたい」といった設定など必要とせず、単純に「同性愛だから」というだけでそれを描こうとしたと思います。
 昔の百合だったら、「普通」はみんな異性愛者だから、同性への恋愛感情は「当たり前」でも「説明不要」のものでもない、とみなされており、それを「乗り越える」ことで納得を与える恋愛描写にしたことでしょう。


 でもやが君はそうしなかった。


 単純に言って、かつては概ね差別の存在ゆえに同性愛表現における「恋愛感情」に説得力が生まれ、それは同性愛表現が支持される理由のひとつになっていたと思います。
 これだけ言うと極めて差別的ですが、おそらくそこには恋愛感情が「当たり前」「説明不要」とされることそのものへの疑義があり、ただそれが、単なる差別(=同性愛の理想化)と見分けがつかなくなっていたのだと思います *1


 そしてやが君はそこを分けた。
 やが君は恋愛感情が「当たり前」「説明不要」とされることそのものへの違和感を、「差別ゆえの“葛藤”があるから、同性に対する恋愛感情は“当たり前ではない”から、だから同性愛表現の恋愛感情はより説得力がある」といった差別に基づく見解から切り離したんです。


 この分節化と切り離しは極めて重要であり、百合ジャンルの価値観がアップデートされていることの証拠だなと思います。


(3)同性愛表現と異性愛表現の非対称性

 ただこの分節化と切り離しがあってもなお、『やがて君になる』において重要な、恋愛感情が「当たり前」「説明不要」なものではないという状況そのものが結局のところ同性間だからこそ可能になってる部分はあると思います。


 言い換えれば、「恋愛」が当然ではない状況を捉えられるということ自体に、異性愛表現と同性愛表現の非対称性が存在しているのでは?という問題がある。


 フォロワーさんが、もしこれが男女の物語だったら世の異性規範によって早晩破綻していた可能性が高い、こういう振る舞いが許容されているのは同性間だからという部分が大きいんじゃないか、と言っていて、確かになあ、と思いました。


 単純に言って、異性愛だと周りもすぐに「あ、恋愛だ」という解釈をされるし、そのような解釈の影響を当事者たちも受ける。男女であっても「恋愛感情がわからない」「片想いだけでいい」といったことは当然あるでしょうが、世の中の「原則的には異性愛である」という価値観の存在が、そのような揺らぎを捉えにくくするんじゃないでしょうか。
 当事者は「恋愛」に距離を感じていたとしても、異性愛だともっと容易に「恋愛」に回収されると思います。なぜなら世の中には残念なことに依然として「原則的には異性愛である」という価値観(これを以下ではざっくり“異性愛主義”と呼びます)があるからです。


 このことはやが君の問題というよりも、「恋愛」概念そのものの揺らぎ(たとえば恋愛とも友情とも言い切れない曖昧な「巨大感情」、「名前のつけられない愛」等)を描くことになぜ百合やBLは長けているのかという問題です。
 仲谷先生が留保をつけつつも「仕方のないこと」として語らざるをえなかった、「同性愛を題材とした恋愛作品には、相手を好きになる理由や葛藤、あるいは理屈をねじ伏せてしまうような強い関係性が描かれていることが多い」ことの理由だと思います。


 ざっくり言えばそれは、同性愛表現は「恋愛」概念の揺らぎや説得力を持った「恋愛」を描くことに長けているけれども、それを可能にしているのは異性愛主義である、ということです。


(4)異性愛主義とは何か?

 では同性愛表現と異性愛表現の非対称性を生む「異性愛主義」とは何なんでしょうか?
 たぶんこの「異性愛主義」とは何かをきちんと分節化することによって、かつての「葛藤があるからいいんだ」みたいな差別的な話とも違う、仲谷先生が「仕方のないところ」として語らざるを得なかったある実感を、より正確に把握できるんじゃないかなと思います。

 

 さて異性愛主義とは、最も簡単に言えば「原則として異性愛である」とみなすことです。

 これだけ言うと単純なようですが、この想定は実に多くの犠牲を伴うものです。
 異性愛主義は非異性愛に対して差別的であるだけでなく、人々が抱きうる感情や関係性のありようを強く制限し、抑圧します*2

 

 

 まず原則として「異性愛」であるという想定は、男女とみれば即座に恋愛関係に違いない、恋愛感情が発生するに違いない、とする決めつけを伴います。

 男女ものだと「恋愛」概念の揺らぎを捉えにくいのもこのためです。

 あまりにも強い決めつけのため、男女を描くと「恋愛」から切り離すことが難しくなってしまう。
 言うまでもなく、これは異性愛者を自認している人にとって、自らが抱く感情・築きうる関係性の可能性を喪失させるものです。関係性や感情があらかじめこの決めつけによって制限されてしまうのです。

 「異性間の友情は成り立つか」みたいな話をするのが大好きな人たちっていますけど、この手の話をしたがる人はメタ的には、おそらくこのような喪失・制限に対するある種の「戸惑い」を表明しているんじゃないかな。

 

 また、原則として異性愛という時の「異性愛」には恋愛感情と性欲がセットで含まれています。

 恋愛感情と性欲が同時に、同一の対象に起こるだろうという想定も、異性愛主義は含んでいます*3

 要するに異性愛であろうと同性愛であろうと必ず性欲を伴うはずだと想定されており、したがって異性愛主義は、同性愛が「単に精神的なもの」であることを認めることができません。
 もしも同性愛が「単に精神的なもの」である場合を認めてしまうと、異性愛者と自認している人同士の「友情」と区別がつかなくなる。だから異性愛主義は「性欲」と必ず結びつけようとする。

 原則として異性愛が想定されているために、異性愛者は異性とセックスしなくても”異性愛者”でいることができるのに、同性愛者は同性とセックスしなければ「単なる友情」と言われる、「同性愛」は性欲と必ずセットにされる、この非対称性。

 「友情」と「恋愛」をどうしても切り分けたい、性欲と結びつけたいという思想としての”異性愛主義”です。


 まとめましょう。
 異性愛主義は、非異性愛に対して差別的なだけではなく、「友情」と「恋愛」を切り分け「恋愛」と「性欲」を必ずセットにするという側面を持っており、人々が抱く感情や築く関係性の種類を強く制限し、抑圧するものに他ならない。

 

(5)「仕方のないところ」

 異性愛主義とは何かを明確にしていくと、こうした価値観が支配的な場所では、「恋愛とも友情ともつかない何か巨大な感情があって」とか「恋愛感情とはそもそも当たり前で説明不要のものじゃないのでは?」とか、そういう話なんて全然できなそうな感じがする。というか、全然できなくしているものこそ「異性愛主義」なのでした。

 

 まあオタクならわかると思うけど、関係性オタクが異常に好きなのは「原作では恋愛と明白にみなされていない関係」から「恋愛」やら「性欲」やらを読み取ってしまうことであり、「いや公式ではやっぱ付き合ってはいないな」みたいな一種の冷静な諦観を時に抱くことがあっても、基本的には懲りずに公式で特に「付き合ってる」とみなされていない二人(あるいはn人)から「恋愛」あるいは「性欲」を(勝手に)読み取ります。


 そもそも結局のところ、恋愛と友情は明白に切り分けられるものではない。

 読み取りようによってはいくらでも「恋愛」になる。わたしたちは明白に恋愛とみなされていないものからあえて「恋愛」を読みとることで、その強固とされる境界線の揺らぎを暴露しつつ、曖昧さを孕んだ関係性そのものを楽しんでいます。


 言うまでもないことですが、恋愛も性欲も異性間でのみ発生するものではない。

 

 百合の定義はまあ人それぞれだけど、恋愛というだけではない任意の強い感情を含むという風に考えてる人もそれなりに多いと思う。それは「人間関係において強い関係性・感情は必ずしも(狭義の)恋愛に限定されるものではない」という実感も含むものです。

 

 これらは先に見た異性愛主義の、あらゆる側面に対するカウンターです。

 

 仲谷先生が「仕方のないところ」として留保をつけつつ語らざるをえなかったのは、おそらくは同性愛表現の中に見えた異性愛主義による感情や関係性の制限からの「解放」だったんじゃないかな、と思います。
 当然、その解放そのものが、異性愛主義による異性愛表現と同性愛表現の非対称性によって成り立っているということはあります。その限りでは「仕方のないところ」としていささか消極的に語らざるを得ない。


 けれども『やがて君になる』は異性愛主義の「恋愛感情の自明性」を問い直し、しかもその問い直しをホモフォビアから分離させた作品です。それってすごく大事なことだし、今後のジャンルの可能性を切り開いていると思う。

 

 つまりは(「葛藤があるから〜」「同性愛じゃなくてもっと別の〜」みたいな話がしてしまっているように)誰かを踏みにじることなく、感情や関係性の可能性を広げる、捉え返すような表現です。

 

 そういうな表現が今後どんどん産まれるといいなと心から思います。そして人間の感情や関係性の多様性が追求されればいい。と、思います。本当に。

 

*1:ホモフォビアと既存のカテゴリーに対する違和感・反発を分節化、切り離す必要に関しては以前もブログで書いたのでよければ読んでください。

*2:異性愛主義については竹村和子(2002)『愛について』を参照。

*3:恋愛対象と性欲を向ける対象を一致しているとみなすのも異性愛主義の抑圧のひとつ、ということに関しては以前ブログで翻訳した『恋愛対象と性的指向が食い違うことの意味について』を参照。