BL受け攻め文化結局なんなのか問題

どーーしてBLのオタクはこんなにも受け攻め固定非固定リバ等セックス・ポジションを重視するのか、人間性や関係性に対する解釈がなぜセックス・ポジションの話になるのか、BLのオタク達にとってセックス・ポジションがなぜそこまで核心的なものであるのか?
BL受け攻め文化結局なんなのか問題、まだ自分の中で納得できる答えが見つかってないんだけど、ひとまず整理しようかな〜と思って書きました。というわけで、以下はBL受け攻め文化結局なんなのか問題について。

 

 

▼ BLカップリング論争

BLのオタク(特に二次創作)をそれなりの期間やっていると、必ず一度はカップリング論争を目にしたことがあると思います。
A×Bなのか、それともB×Aなのか、はたまた総受けか総攻めかリバかモブはありか同一カップリング内でも「こういう受け/攻めは嫌」などなど。商業BLのオタクだとまあ最初からカップリングも物語も提示されているのであまり見ないのですが、解釈の余地がある二次創作だとこういう論争は必ず見かけます。

 

こういう論争を見ていると、なんだかジェンダーを巡る論争みたいだなと思うことがあります。女性的な受けの是非とか、リバ=対等論とか。
もちろんどのような好みの人であれ、それぞれのこだわりがあり、理由は決してひとつではありません。各人が何をどのような理由で好んでいるか、というのはそれぞれ異なった理由があると思いますし、それをあんまり簡潔にまとめるのもどうかという気はする。

 

でもやっぱり、ここには単なる個々人の好み以上のもの、性と人間関係を巡る根本的な問題が存在しているように思います。
セックス・ポジションは単にセックスにおいてどういう役割を果たすかという問題だけではなく、人間性や人間関係に深く関わっているかのようである。実際に深く関わっているかは別として、少なくとも多くの人間にとってそのようにみなされている。とりわけBLにおいてその傾向は顕著です。

人間性や関係性に対する解釈が、BLでは非常にしばしばセックス・ポジションの話になる。セックス・ポジションと人間性・関係性をあからさまに直結させる傾向が、BL文化には確実に存在しています。

 

 

▼ セックス・ポジションと権力バランス

まずBLに限らずより一般的に言って、そもそもセックス・ポジションと人間関係はどういう関わりを持っているのか?という問題があります。
受け攻めと人間関係が関わりを持つとすれば、それは端的に言って「どちらが能動的か/支配的か」という話になります。受けが支配的にリードするにしても、「セックスにおいて受けだけどリードする」という形なのであって、攻めが支配的にリードする関係とはやっぱり種類が違う。一般的に言って「対等」な関係であったとしても、能動性や受動性のバランスというものは必ず存在します。
要するにセックス・ポジションと人間関係の関わりは、ものすごく極端な言い方をすると、権力関係のバランスの話になる。

 

じゃあどうしてセックス・ポジションと人間関係の関わりが権力バランスの話になるかというと、セックスが能動/受動、支配/被支配と結びつくものとして社会の中でイメージされているからです。
たとえばセックス・ポジション、とりわけ受動的な立場にまつわる根深い偏見というものはやっぱりあると思います。「メス堕ち」という割とアレな単語もありますが、要するに受動的で快楽にのまれるのは「堕ちる」ことという考え方がある。

 

BLだけではなく、それはとりわけ性的に受動的とされがちな女性の立場とも結びつき、「性的に受動的であることはどこか屈辱的なこと、劣位に置かれることである」という考え方として、長らく社会で蔓延してきたものです。

ちなみにわたし個人はこういう考え方が好きではありません。ただ、この考え方を間違ったものとして拒絶するにしても、それが社会に存在していることそのものは否定できないでしょう。

 

この考え方に賛同するにせよしないにせよ、ともかくこうした、性的受動性にまつわる「呪い」めいた考えは存在するのであり、少なからずリアルな人間関係や人々が抱くセクシャル・ファンタジーに影響を及ぼしている、ということは言えるんじゃないかなと思います。

 

 

▼ やまがたさとみ『感情回路』

ところでセックス・ポジションと人間性や人間関係の関わりについて考えるとき、個人的にすごく好きで印象に残っている作品があります。
やまがたさとみの『感情回路』っていう商業BL漫画なんですけど、これはセックス・ポジションを巡る呪いが人間関係にどんな影響を及ぼすか、そこからいかに解放されるかについての物語なんです。端的に言うと、それは「受け」にまつわる「呪い」をとく物語です。

 

感情回路 (花音コミックス)

感情回路 (花音コミックス)

 

 

『感情回路』はざっくり言えば、セックスにおいて「受け」であることを肯定できなかった“男性的”な男性(ハルジ)が、「受けである自分」を肯定できるようになる物語です。
ハルジは水口という男性とかつてセックスする関係にあったのですが、二人とも「男性同士」であることへのあれこれからうまく素直になれず、結局別れてしまう。互いに恋をしながら、虚勢を張って「セックスだけ」だ、後腐れないのがいい、なんて言ってる。水口はハルジを抱いておきながら「女みたいに抱かれてんじゃねーよ」などと言うし、ハルジはそれがトラウマになってしまう。マジでなんてこと言うんだ水口。

 

そして別れてしまった二人の間に表れるのが、主人公の園田マキなんです。

 

マキはハルジを知りたいと言う。その人を知るためにセックスしたいと言う。だから「いれてほしい」と言う。マキとハルジはセックスする。そして触れることで、マキはハルジから、ハルジが誰かに教えられたこと・したいと思うこと・したくてもできなかったこと、を感じ取る。ハルジはマキを抱くことで、「受け」であることに屈託のないマキを目の当たりにすることで、水口との付き合いを破綻させた「受け」を巡る呪いから解放されていく。

 

ハルジはマキを抱いて、マキが抱かれる様子を身を以て知ることで、セックスにおいて受けであること、愛情を表現すること、それを肯定することを知っていく。マキとのセックスは、ハルジにかけられていた呪いを解くわけです。

 

受動性を正面から肯定するマキは、セックス・身体を通じてふたりの「感情」をつなげる「回路」になる。

 

ハルジにかけられていた「呪い」とは、「女みたいに抱かれてんじゃねーよ」という水口の言葉が象徴するように、セックスにおいて「受け」であることを巡る呪いです。
受けであること、挿入されることは、ハルジに引け目を感じさせるものでした。
それは彼にとって多かれ少なかれ屈辱的なことであり、攻め=水口にとっても、(素直になれなかった、という部分があるにせよ)揶揄するような言葉が口をついて出てしまうようなことだった。それは性的受動性をめぐる「呪い」です。

 

そして『感情回路』はBLなので、この呪いは男性が引き受けるものとして描かれています。
要するに性的に受動的であること/挿入される側であることそのものの呪いとしてではなく、「男性としてのアイデンティティ」にまつわるもの、少なくとも身体構造の条件的には「挿入する側」に回る可能性がある人間の持つ苦悩、ジェンダーアイデンティティの問題として描かれている。

 

もっとわかりやすく言い換えましょう。
性的に受動的であること=受けであることを巡る「呪い」は、BLでは男性が引き受けるもの、潜在的には「逆転可能」なものとして描かれている。

 

 

▼ イメージのリアリティ

と、こんな風に言うとおそらく誤解を招くと思うので、急いで付け加えます。
わたしは別に、男性同士は「対等」だから良いよねとか「リバがやっぱり対等で良い」とかの話をしたい訳ではありません。(言うまでもないことですが、男性同士の「対等」な関係を好む人やリバ=対等と考える人を否定したい訳でもありません。)
またここで「逆転可能」という言葉を使ったのは、別に実際に逆転する、ということではありません。あくまで可能性であり、そこにある身体構造の条件の話です。

 

一般論ですが、同じ身体構造を持っているからと言って「対等」な関係になるとは限りませんし、挿入されたりしたりすることで「対等」か否かが常に決定づけられるとは限りません。
 

何を、どの程度であれば「対等」とみなすかにもよりますが、ともかく穏当な一般論を言えば、セックス・ポジションは関係性を常にすでに決定づけてしまうものではないのです。
(あとまあ個人的には、そもそも人間関係が究極的に「対等」であることはないんじゃないかなと思います。結局、たとえ同じ性別であったとしても別の個体なわけですから。)

 

セックス・ポジションと人間関係の権力バランスを短絡的に直結させることは、端的に言って誤りです。それはこの世界の、経験的事実に反しています。
これは穏当な一般論で、ある面では間違いなく正しいものです。

 

が、穏当な一般論では所詮何も説明できない、というのもまた正しいと思います。
性的に受動的であることを巡って形成されるイメージの呪いが持つ力も、その呪いがわたしたちの意識にどんなものをもたらしているのかも、そもそも性と権力と人間関係がどんな風に絡み合って人々に受け取られているのかも、受け攻めセックス・ポジションがなぜこれほど核心的なものとして受け取られているのかも、こうした一般論は何一つ教えてはくれないのです。

 

したがって次のように言う必要があります。

身体構造やセックス・ポジションは、関係性の権力バランスを決定づける訳ではない。けれどもセックス・ポジションや身体構造について人々が抱く「イメージ」は存在している。そしてその「イメージ」がもたらす影響力は、紛れもなくリアルなものに他ならない。

たとえば性的受動性を「屈辱」と感じる人が少なからず存在するように。それが水口とハルジの関係を一度は破綻させてしまったように。あるいは性的に受動的な立場に置かれることが、大変な「苦難」として経験されることがありうるように。

 

 

▼ 「ねじれた表現」の可能性

そもそもなんでわざわざ長々とセックス・ポジションを巡るイメージの話をしているかと言うと、このことが「BLのオタク達にとってセックス・ポジションがなぜそこまで核心的なものであるのか」に関わっていると思うからです。

非常にしばしば核心的なものとして捉えられているセックス・ポジションって一体何なのか、人間性や人間関係の解釈になぜそこまで関わるように思えるのか?

 

以前、わたしは「BLには、女性ジェンダーの苦しいあれこれがねじれた形で表出している」という内容のブログを書いたんですけど、受け攻め文化のあれこれも女性ジェンダーのしんどいあれこれに関する「ねじれた表現」なのかなと思うことがあります。もちろんそれだけではないけれど、少なくとも一部分を形成する要素ではあるのかな、と。

 

ざっくり言うと、受動性が運命づけられているかのようである(実際にそうだということではなく、少なくとも社会で「受動的」なものとして非常にしばしばイメージされてしまっている)身体を持って生きることにまつわるしんどいあれこれが、セックス・ポジションに関する強いこだわりとして、「ねじれた表現」として表出しているのかもしれない。と思うときが(わたしは)ある。

 

明確に意識されていなくても、なんとなく無意識に存在しているしんどいあれこれがあるのかもしれない。*1

先に言及した『感情回路』では、マキがハルジを救いましたが、ハルジを救うのはかつて彼に「女みたいに抱かれてんじゃねーよ」という言葉を投げつけた攻めの水口ではなく、ハルジと同様に「受け」であるマキです。

水口がハルジに心ない言葉を投げたことを謝ったとしても、マキがハルジにもたらした救いと同じものではないでしょう。マキは「攻め」である水口にはできない仕方でハルジを救うことができたし、バラバラになっていた感情をつなぐ「回路」になることができた。
そしてBLはある意味で、ハルジにとってマキが救いであり「回路」であったのと似たような意味で女性ジェンダーのしんどいあれこれに対する救いないしはある種の「回路」のような側面があるのかもしれない。と思うことがわたしにはあります。

 

ただ以前のブログでも書いたように、人間の反応は複雑であり、人間の欲望は複雑です。
受動性や非対称性を意識的にであれ無意識的にであれしんどく思っていたとしても、その反応はたとえば「能動的になりたいという願望を持つこと(攻めへの自己投影など)」といったストレートな形で現れるとは限らない。*2

意識されていることと欲望のあり方の回路は複雑です。カップリングの好みが千差万別なように、現れ方は様々だと思います。

いろんな人がいる中で、少なくとも確実なこととして言えるのは「BLではセックス・ポジションが非常にしばしば核心的なものになっている」程度であり、そのこだわりはあるいは「ねじれた表現」なのかもしれない、ということです。

 

 

▼ セックス・ポジションとジェンダー

あとは「人間性や関係性に対する解釈がなぜセックス・ポジションの話になるのか」問題なんですけど、結論から先に言うと、セックス・ポジションとジェンダーの間の等式(というか、そこに等式が成立しているかのように捉える考え方)が社会において存在するからだとわたしは思います。

 

社会には「挿入されている=受動的=女性的、挿入する=能動的=男性的」というイメージの等式が(残念ながら)存在しており、この等式をどの程度受け入れるか(女性的な受け、男性的な攻めと解釈するか)、何かしらのひねりを加えるか(男性的な受け、女性的な攻めと解釈する、もしくは両方女性的/両方男性的とする等)、それとも拒絶するかといった形で複数の解釈が存在する。

ここでは便宜上「女性的」「男性的」といったざっくりした言葉を用いましたが、この言葉によってどんなものをイメージするかも人によって様々であり、これらの言葉にはグラデーションがあるので、解釈は多様に増殖します。

 

たとえば男性である受けを、セックスにおいて「挿入される側」だからと言ってあたかも「女性」であるかのようにみなすのはいかがなものか? あるいは、攻めがセックスにおいて「挿入する側」だからと言って過剰に「男性的」であることを求められる(スパダリ攻めとか)のはいかがなものか、いやいや受け攻めがどれほど(古典的な)性役割をなぞっていようと/(古典的な)異性愛をなぞっていようとそこに何の問題があるのか? むしろ「男なんだからみんな挿入したいはず」的な男性の受動性を否定する言説はそれはそれで「男性らしさ」の規範の押し付けなんじゃないか? しかしさすがに料理するのは絶対受け、みたいなのはちょっと保守的すぎない? などなど。

 

BLでは、受け攻めの話がしばしば各人のジェンダー観の話になっているように見えたりすることがある。だからカップリング論争がまるでジェンダーを巡る論争のように思えることもある。
とはいえBL、つまり男性間の関係として描かれている以上、いわゆる男女の性役割をめぐる議論と重なりつつも離れていく側面があります。男性間の関係として描かれているので、(古典的な)異性愛を重ねるかどうかという問題はあるけれど、とりあえずそこではいわゆる「男女の差異」が中心の論点になっているのではありません。

 

論点になっているのは「男女の差異」ではなくセックス・ポジションの差異です。言い換えれば、ジェンダーとセックス・ポジションの間の関係性です。
つまり、受けは「挿入されている」からといって「女性的」なのか、攻めは「挿入する」からといって「男性的」なのか、それともセックスにおいて挿入されていようとしていようとその人の性格や振る舞いには何も関わりがないのか?という話。

 

要するにそこではセックス・ポジションとジェンダーの間の等式、「挿入される=受動的=女性的、挿入する=能動的=男性的」という等式それ自体が問題化されている。
ジェンダー論風味のカップリング論争を突き詰めると、そういうことになると思う。セックスとジェンダーの関係をめぐる想像的な再構築と言ってもいい。そしてそれはたとえば「女性的な受けを好き=保守的なジェンダー観」などの問題でもありません。BLに舞台を移すことで、この等式が本質的なものか否かへの問いはすでに始まっているのだから。

 

 

▼ 最後に

BL受け攻め文化結局なんなのか問題、たとえば逆カプ見たときのほとんど生理的嫌悪感とか、ああいう単なる「考え方の違い」というには強烈すぎる反応・感情の正体はまだ言語化しきれていないんですけど(いちばん重要では?!)、とりあえず今回はここまで。

ただ最後に、そもそもセックス・ポジションにこだわらない、左右なし・どっちでもいい・セックスしないカプが好きっていうのもあるよね、って話だけして終わりたいと思います。

 

ここまでずっと、BLのオタクにとってセックス・ポジションが核心的な問題であるのはどうしてか、という形で長々書いてきたんですけど、別に左右こだわらないオタクがたくさんいることも事実です。
ていうかわたし自身、カップリングによってこだわったりこだわらなかったりする。どっちでもいいな、と思うこともあれば、いやいやこれは固定で、と思うこともある。
そもそもセックスがBLにおいて常に必須なわけではないし、セックスしないBLも、左右決めないカップリングも大好きだし、そういうBLを愛しているオタクがたくさんいることも知っています。そのあり方を否定したり、無視したりしたいわけではないのです。(もちろんセックスも大事な側面ではあるんだけど。だからこんなに延々考えたりしてんだけど)

 

これまで散々挿入行為を中心としたセックス・ポジションのあれこれについて書いてきましたが、しかしそもそもセックスに常に性器の挿入ないし結合が必須なわけではありません。

 

松浦理英子という小説家がいます。
わたしは彼女のことが大好きなんですけど、彼女は「性器結合中心主義」に批判的な人です。

どういうことかというと、社会でイメージされるセックスがあまりに「性器の結合」を中心化していることを問題視して、それを「性器結合中心主義」と呼んで批判し、性のイメージの拡張や再編成を試みた作品やエッセイを書いている作家さんなんです。(わかりやすいところで言うと『優しい去勢のために』というエッセイや『親指Pの修行時代』という小説で描かれているので、よければ読んでみてください。)*3

 

わたしは彼女が大好きなので、彼女の言う「性器結合中心主義」は確かによろしくないな、ていうかセックスや性欲のありようを性器的なものに切り詰めるのは嫌だなという思いもあり、そもそも人間性や人間関係の解釈がセックス・ポジションの解釈に直結しそれどころか前者が後者に集約していくのを見るたび、やっぱり人類そろそろ「セックス」を再び発明し直した方がいいのでは?と思ったりもするし、でもカップリングによってやっぱ割にこだわっちゃうんだよなという部分もあり、まあ別にこだわってもいいじゃんな、と思ったりもする。

正直、白黒はっきりした結論はありません。


というのも、様々な人がいて、様々な欲望の形があり、それは途方もなく複雑で、ストレートなロジックで綺麗に理解できるものではないのだから。

ただ、少なくとも考えるべき複雑さがそこにはあると思います。BLカップリング論争はまあぱっと見ただのオタクの論争ですけど、そこには性と人間関係を巡る根本的な問題が含まれているように(わたしは)思う。なのでできる限り言語化してみたいなと個人的に思っています。以上です。

*1:ちなみにアンドレア・ドゥオーキンという人は、『インターコース』という本の中で挿入行為を「侵害」として捉えています。『インターコース』はざっくり言うと、男女間セックスにおいて女性が受動的な立場に置かれることがいかにしんどいものかという話をしている本です。

ただ、ドゥオーキンの議論は「身体構造上全ての権力関係があらかじめ決定される」と受け取られかねないものであり、「イメージのリアリティ」で述べた通り、あまりにセックス・ポジションと人間関係を短絡的に結びつけてしまっている部分、色んなことをあらかじめ決定されているものとして捉えすぎている部分があってかなり問題含みではあります。しかしそれはそれとして、「ある社会の中で、ある女性が性的受動性をどれほどしんどいものとして捉え得るか」のドキュメントとして非常にパワフルな本だとわたしは思います。 

*2:ジェンダー関連のBL論は原因と結果をあまりにストレートに繋げすぎており、欲望の表出の複雑さを考慮に入れられてないのでは、とわたしはいつも思っていました。

*3:ちなみに松浦理英子の『裏ヴァージョン』という小説は、10代の頃からの親友でBL的な妄想をシェアする思春期を過ごし20代はすこし距離が出来てでも再開して共に暮らし家賃代わりに小説を書く、という40女2人の物語です。BLオタク女性間の絆に関する物語として本当に素敵なので、これもおすすめさせてください。

リメイク版『サスペリア』と「邪悪」なフェミニズム

ルカ・グァダニーノによるリメイク版『サスペリア』観てきたんですが、「監督はフェミニズム運動をリスペクトして作ったと言ってるが……」という前評判を聞きリベラルぶって内実全くリベラルではないおじさんあるあるみたいな感じかな〜と思っていたらそんなことはまるでなく、超ド球ストレートのフェミニズム運動への憎悪/ありえないくらい「邪悪」なフェミニズムが描かれてて一周回って感動しちゃった。という話。
オリジナル版観てないし、ドイツ史には疎いので本当に個人的な感想です。

 

※以下、完璧なネタバレです。

 

 

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グァダニーノ版『サスペリア』はフェミニズム運動をリスペクトして作った、と監督自身が語っており、いくつかフェミニズム映画として受け止めている批評もヒットする映画です*1
が、正直わたしはまるで真逆の感想を抱きました。

 

個人的に、サスペリア』に描かれているのは、フェミニズム運動がいかに邪悪で呪わしいものかということに他ならないと思います。むしろ人々がどうやってあそこにフェミニズムを見出したのかマジで全然わかりません。と、言うとなんだか非難しているようですが、別に非難しているわけではなく、むしろフェミニズムへのよくある偏見をここまでホラーとして昇華してて一周回ってなんかもう面白いな・・・と思った。

 

物語をざっくり言うとこんな感じ。
1977年のベルリンが舞台で、ダンスの才能溢れる女の子(スージー)がドイツにやってきて「マルコス・ダンス・カンパニー」と言う舞踏団に参加します。スージーは憧れていたダンサー達に囲まれて胸をときめかせているものの、その舞踏団を牛耳っているのは実のところ恐ろしい魔女達だったのです。魔女に支配された舞踏(コンテンポラリー・ダンス)は美しくも野蛮で恐ろしく、その舞踏は目に見える部分では迫力ある芸術だけど地下では同時に人を信じられないほど残酷に殺してしまう。そういう話。

 

 

・子宮/中絶/フェミニズム

重要なのは、ドイツ赤軍という極左テロ組織による時事的な事柄と、魔術に支配された舞踏団の恐ろしさがパラレルになっていること、また舞踏団のトップであるマダム・ブランが「フェミニスト」として描かれていることです。


スージーが舞踏団にやってきたとき、最初にできた友達のサラは「戦争中も彼女が舞踏団を守ってくれた」と言います。国が女に子宮の提供を求めた時、彼女が盾になり守ってくれたからこそわたしの子宮は空っぽなんだ、と。マダム・ブランが「フェミニスト」であることを物語の序盤で端的に説明するものとして、「子宮」が出てくるのです。

 

戦争によって女性が「国母」、子供を産みその子供を兵隊として国に提供する役割を担わされたことは言うまでもありません。ですから、マダム・ブランのこのエピソードは、国家による女性の生殖能力のコントロールに対抗しているため、フェミニスト・エピソードとしてもちろん寿がれるべきものではあります。それ自体は問題ないのです。

 

ですが同時に、フェミニスト=女性の「母性」を否定する存在、という戯画的なイメージが繰り返しアンチ・フェミニズム言説として蔓延してきたことも確かです。

 

そして女性の身体、生殖能力に対する自己決定権を擁護するフェミニズムの歴史にとって非常に重要な要素のひとつは「中絶の権利」です。アンチ・フェミニズム言説においては、フェミニスト=中絶という「殺人」を推進する立場、ということで非常に強い敵意を巻き起こしてきた問題でもあります。

 

で、まあわたしはそういう前提のもと『サスペリア』を観ているので、結構うっわ〜〜〜と思うところが多かった。何よりもまず、魔女の呪わしい舞踏と魔女達が犠牲者に向ける編み針のようなものを見て、うっわ〜〜〜と思いました。

 

さて、『サスペリア』の中で最も恐ろしいシーンは、主人公スージーのダンスがオルガという少女を殺してしまうシーンです。
物語の序盤で、オルガという少女が舞踏団のトップに狂ったように怒りをぶつけます。先に姿を消したパトリシアという少女について、オルガは「パトリシアはどこへ行ったのか」「パトリシアはあなた達を嫌っていた」「この偽善者め」といったことをマダム・ブランに向けて言います。そしてオルガは泣きながら飛び出す。出て行ってやる、というのです。けれどもオルガは出ていくことができません。涙が止まらなくなり、錯乱したままダンスフロアのような場所に入って行き、出られなくなってしまいます。


そしてパトリシアは「舞踏団のトップであるマダム・ブランにより何やら魔術を宿されたらしいスージーが踊ると、彼女の踊りと合わせて地下のオルガの体がありえない方向にひん曲がります。オルガの意志に反して、彼女は関節とか骨とか何もかもがめちゃくちゃになるようなグロテスクで残虐極まりないダンスを踊らされてしまうのです。


文字通り体がぐちゃぐちゃになったオルガを、舞踏団の魔女達は取り囲みます。そして編み針のようなもので、ダンスによってめちゃくちゃになった彼女を突き刺し、さらに苦しめる。重要なことですが、編み針は手や頭だけでなく性器とおもわしき部分にも向けられます。

 

サスペリア』の中で最も恐ろしいこのシーンを見て、わたしが思ったのは「これは中絶のメタファーじゃないか」ということです。編み針は実際に中絶が違法な場所で中絶の道具として使われたものでもあり、あの道具の形状と苦しむ女性を見ていると、(まああくまでわたしは、ということですが)それを連想せざるをえませんでした。

 

フェミニスト」とされるおぞましい魔女達にはむかった報いとして、魔女達が彼女の身体の自由を奪い編み針のようなものを突き刺す、というシーンは、あたかも中絶のメタファーのようであり、「フェミニスト=中絶の権利の擁護者」のあまりに邪悪な表象に思えます。

 

何よりおぞましいのは、フェミニスト(とされる)女性達が、彼女達を「偽善者」と呼びその集団からの離脱を望んだ女性を攻撃する、という構図です。
フェミニズム教条主義(ここでは「中絶の権利」のあまりに極端かつ歪められた推進でも想定されているのかな)がフェミニストではない女性を非常に厳しく抑圧する、という構図をびっくりするほど恐ろしいホラーとして描いているわけで、突き抜けたアンチ・フェミニズム感になんかもう一周回ってすっげえな〜としか思えませんでした。いや〜すごい。

 

ところで物語で最もおぞましいシーンはオルガのシーンなのですが、ラスト周辺の、地下に魔女達が大集合しているスプラッタシーンも十分におぞましい。(若干やりすぎてダサいかなと思いましたが)ここでも編み針のような道具が出てきます。そしてこの道具はサラという少女の腹を切り裂きます。

おぞましい「魔女」はラストが近づくにつれ「母」なる存在へスライドされる。クライマックスにおいて主人公は「母」を殺しまくる。同時に少女の腹が切り裂かれる。物語は母子間で起こる「殺人」の象徴をふんだんに用いて「母子」の対決を演出します。

ラストのてんこ盛りスプラッタシーンにおいてこの道具が果たした役割を見て、わたしはア〜やっぱりそのメタファーだったんだな〜とか思ってました。

 

 


・魔女/フェミニズム

しかし何はともあれ恐ろしいフェミニストを「恐ろしい魔女」として描き、その呪われた力の残虐さを描くところがすごいですよね。中世に多くの女性が殺されたいわゆる「魔女狩り」は女性に対するヘイトクライムだった、という見方、またそれを踏まえたフェミニズム運動における魔女のモチーフは有名です。「私たちはあなたたちが火炙りにしそこねた魔女の孫娘」というスローガンもありますね*2

あえてやってるならものすごい悪意だな〜と思う。いや当然あえてやってるんでしょうが。なんかもうすごい。本当にすごい。

 

 


極左テロリズムフェミニズム

 グァダニーノ版『サスペリア』における「邪悪」なフェミニズム表象は、こちらは結構単純だなと思ったのですが、フェミニズム極左テロリズムと重ねられていることです。
先に述べましたが、物語は1977年ベルリンを舞台にしており、ドイツ赤軍の時事的事柄と舞踏団の物語がパラレルに重ねられています。

ドイツ赤軍のテロリスト達3名の死亡のニュースを背景に、舞踏団における「3人の母」の話がなされるシーンがあり、まあ言いたいことは明白です。要するに舞踏団=フェミニズム極左テロリズムと同様、「正しい」ことを言っているようだが過激で危険で暴力的な集団なのだ、と。アンチ・フェミニズム言説の定番ですね。いやまあどんな集団も暴走し暴力に走ることはあるので別に全く間違っているとも思わないけど、死ぬほど使い古された言説であることも確かであり、これはちょっとあまりに単純だなと思った。

 

 


・ぐちゃぐちゃにはされないが笑われる男性

 ありえないくらい邪悪に「フェミニズム」を表象するこの映画ですが、ただアンチ定番言説「男性に対する攻撃としてのフェミニズム」の要素は出てきません。
これほどフェミニズムを邪悪に描くなら、「男性嫌悪/男性差別フェミニズム」というアンチ言説の定番に則り、ヤバイ魔女のフェミニスト達が善良な男性達の全身をあらゆる方向にひん曲げる様を描いてもいいんじゃないかと思いますが、しかし『サスペリア』では男性はひん曲げられません。ひん曲げられてぐちゃぐちゃにされるのは女性だけであり、男性はぐちゃぐちゃにならない代わりに笑われます。

 

最初に姿を消した女性(パトリシア)を診ていた精神科医ヨセフ・クレンペラーの訴えにより、舞踏団に警察の疑いの目が向く場面があります。そこでおじさん刑事が舞踏団にやってくるのですが、彼らは舞踏団の魔女を逮捕できないばかりか、魔女達に捕らえられてしまいます。魔女達が笑いながらおじさん刑事を取り囲み、あの編み針のような道具でつついているシーン。そこでおじさん刑事はズボンを脱がされ、性器を丸出しにさせられ、魔女達は彼の性器を指してけたたましい笑い声をあげています。

それは言うまでもなくおじさん刑事にとってこの上ない屈辱を与えるものであり、暴力に他ならないのですが、しかし物語において男性はぐちゃぐちゃにはされないのです。

 

男性と女性の非対称性を言う時、最悪の場合、女性は男性に「殺される」可能性を考えるが、男性が女性に想定するのは「笑われる」可能性である、といった風に表現されることがあります。よくあるこの手の話をなぞるように、グァダニーノ版『サスペリア』のなかで女性は殺されるが男性は笑われます(ここでは女性を殺すのも女性ですが)。
いや笑われるのも最悪だし被害を比較して片方を軽く見せるのはよろしくないのですが、とはいえまあ、事実としてぐちゃぐちゃにはされていません。

 

なので性器を笑われる男性のシーンを見ていて、なるほど、とわたしは思っていました。
男性の(それこそ精神分析的にありえないほど重要な)性器を笑いモノにする魔女達(フェミニスト)を描いて邪悪に表象しつつ、とはいえ男性は全身ぐちゃぐちゃにはせずに済ませておくんだな、なるほどね〜という感じ。

 

 


精神分析/ヒステリー/フェミニズム

 ところで『サスペリア』における魔女達の影響のためか否か体をがくがく震えさせ発狂しているかのような様相を取る人々の描写は、いわゆる「ヒステリー」(神経症)を思わせるものですが、フェミニズム史にとってヒステリー(神経症)はとても重要です*3
ざっくり言うと精神的病やそれをめぐる言説(たとえば精神分析)は抑圧の手段、抑圧の正当化として用いられてきた経緯があり、なかでも19世紀の女性にとりわけ多かったヒステリー(神経症)はフェミニズムで盛んに論じられてきました*4

 

男性の精神分析医による女性の患者への一方的な診断、偏見に満ちた分析、それ自体が抑圧に他ならないことはまあ死ぬほど繰り返されてきた定番のフェミニズムにおける精神分析批判なのですが、そういうことを踏まえると、「男性の精神分析医」の表象には色々気をつかうところがあるかなと思います。

が、『サスペリア』にはヨセフ・クレンペラーという男性の精神分析医が出てきていますが、その描き方を観る限りその辺全く踏まえてないのかな〜と思いました。ていうかあえてやってるのかな。

 

この物語のなかでヨセフ・クレンペラーという男性の精神分析医は、批判的どころか非常に良く描かれています。なにしろ舞踏団の魔女達(フェミニスト)の恐ろしい魔術の犠牲になった少女(パトリシア)を探し、まあ勝ちはしないものの立ち向かうのがヨセフ・クレンペラーであり、むしろ男性の精神分析医は全く邪悪な部分のない善良な人間として描かれている。

 

しかも『サスペリア』において男性はぐちゃぐちゃにされないし、このヨセフ・クレンペラーは「悪い魔女」を倒した「善い魔女」であるスージーによって救われるんですよね。ラスト、スージーは彼に謝罪するのです。あなたに悪いことをした、それを止められなくて申し訳なかった、的なことを言い、彼の苦しみを取り除いてやります。


いや人間をぐちゃぐちゃにするのは良くないのですが、それでも「善い魔女」は男性に優しいんですね、男性に優しいのが「善い魔女」なんですね、そうですか・・・という気分になっちゃった。

 

ついでに言うと、最後の方で彼が離れ離れになった妻と書いたと思われる相合傘的なハートマークが「愛」「救い」のようにちらっと映るシーン観て、そうですか・・・感が増しました。婚姻制度、善良な男女のつがい、異性愛、そういうのが恐ろしい魔女達との対峙の果てにパッと映るんだよな。いやはや。

 

まあなにはともあれ、あたかもヒステリーを連想させる描写を重ねておいて、「男性の精神分析医」を「魔女(フェミニスト)に立ち向かう善良な人間」として描くというのは、フェミニズム史を知った上であえてやっているなら結構すっげえな、という感じ。知らずにやってるならフーンて感じですが、知った上でやってるならものすごい悪意だなと思った。

 

 

 

・終わりに

というわけで、グァダニーノ版『サスペリア』、個人的にはフェミニズム映画どころか今までわたしが観た映画の中でも屈指のアンチ・フェミニズム映画でした。
徹底されすぎて逆に感動してしまった。というかある程度ちゃんと勉強したのかなとか思った。いろんな意味ですごいね。

 

個人的に好きか嫌いかで言うと、好きと言うのは流石にちょっとアレだけどでも全然嫌いじゃないです。え〜?!こんな長文書いといて?!って感じだけど本当です。後半はちょっとB級っぽいなと思ってダレちゃったけど。

 

でも全てを差し置いても、とにかくマダム・ブランとスージーの百合が大変好きだったのと、どうであれ強大な力を持つ邪悪な魔女達が画面にいっぱいいるの最高だった。強くて暴力的な女性って、たとえば子供を守るためや復讐のためやマッド・マックス怒りのデスロードのような家父長制への対抗などとにかく「正当な理由」が付されることが多いと思うのですが、サスペリアの魔女達の強さと邪悪さには正当性がまるでなくてただ単に邪悪であり、純粋な邪悪さと暴力性が本当に良かった。マジで邪悪な女性達がたくさん出てくるの最高すぎる。邪悪な魔女と百合で死ぬほど加点せざるを得なかった。以上です。

*1:『サスペリア』は単なるリメイクではない。より深く再創造された新たな物語だ:映画レヴュー|WIRED.jp

『サスペリア(2018、リメイク版)』感想(ネタバレ)…再構築する意味とは? : シネマンドレイク:映画感想&レビュー

*2:魔女とフェミニズムに関しては、最近こんな愉快な記事も出ています。ちなみにNetflixで観れるフェミニズム・ドキュメンタリー(She's Beautiful When She's Angry)で、リアルに魔女の格好してデモしているフェミニストの姿も観れます。

*3:エリザベス・ライトの『フェミニズム精神分析事典』あたりを見てみてください。

*4:ちなみにNetflixで観ることのできる『またの名はグレイス』というドラマシリーズは、物語の完成度は言わずもがな、フェミニズム精神分析の歴史を踏まえた本当に素晴らしいものです。精神の病と女性の抑圧については、アンジェリーナ・ジョリー主演の『チェンジリング』という映画でもテーマになっています。

「ねじれた表現」としてのBL

BLには女性ジェンダーの苦しいあれこれが刻み込まれており、でもそれはわかりやすくストレートな怒りや抗議の表明ではなくてたとえば受け攻めや性暴力や生殖関連言説の描き方といったところに歪んだ形で表出していて、その歪みをわたしはしんどがりつつ愛してきたんですよ、というクソ厄介なオタク話。


・反応/欲望の複雑さ

人間の反応ってすごく複雑なもので、嫌なことや苦しいことがあったとしてもそれを「嫌だ」「苦しい」という風にすぐさま表現できるわけではない。と、わたしは思います。

 

わたしはたとえばお葬式の時に泣けない子どもで、少しも悲しそうなそぶりを見せることができず、親戚から非難の目を向けられた記憶があります。お葬式に限らず、わたしは他人にわかる形で感情を表現することが苦手な子どもでした。幼い頃は、いつも誤解されている、わたしの感じていることがいつも誰にも理解されない、と強く感じていました。
でも思い出してみても、泣けなかっただけで「本当は」悲しかったのか、それとも本当に少しも悲しくなかったのか、わからないんです。ただ、「勝手に目に見える範囲でだけで判断し、決めつけられ、責められた」ことを理不尽だと思ったことは覚えています。
まあそういう個人的な実感があり、わたしは「目に見える範囲だけで、笑っているから楽しいんだろう/泣いていないから悲しいんだろう、といった形でその人の感じていることを限定的に理解するのは暴力的である」と思っています。

 

人は楽しそうにしているからといって本当に楽しいとは限らないし、悲しそうにしているからといって本当に悲しいとは限らない。

 

そもそも、自分が嫌だと感じていること、苦しいと感じていることを、その人自身さえ知らない時ってあると思う。というか、人は自分の感じていることをいつも即座に適切に自覚して、他人にわかる形で表現できるわけではない。
外から見ると、まるで不可解な反応をする人もたくさんいます。
傷ついている時に、「傷ついた、悲しい」と他人からも明確にわかる形で表現できる人もいれば、何もかも冗談にして笑い飛ばしてしまおうとする人もいる。わざとマッチョに「強く」見せようとする人もいるし、苦しい状況を「自分のもの」と認識することができなくて、ひどく抽象的なことしか言えなくなる人もいる。人間の反応はあまりに複雑です。

 

そしてより一層複雑なことに、その「反応」がポーズなのか否かも究極的には判断しかねる。
要するに、他人からはもちろん自分自身でさえも、単なるポーズ(笑い飛ばそうとしているだけ、マッチョに見せかけているだけ)で「本当は」苦しんでいるのか、それとも実際に少しも苦しくないのか、わからなくなることってある。「本当に」自分が何を感じているのかって、自分自身でさえもうまく掴めない部分があると、わたしは思います。

 

そういう世界観で生きているのと、個人的な諸々の実感のせいもあって、わたしには「怒りや悲しみや苦しみがわかりやすい形で表出できない」状況や表現に対するオブセッションがあります。

ねじれた表現。「苦しい」と言うのではなく、むしろ快楽として楽しんでしまうような表現。たとえば、女性に対する性暴力が溢れる世の中で当の女性たちにBLやTLのレイプ・ファンタジーが喜んで消費されている状況それ自体へのオブセッションオブセッションですから、否定したいわけでも肯定したいわけでもない。


人間の反応は複雑であり、人間の欲望もまた複雑です。わかりやすいストレートなロジックで理解できるものばかりではないし、ストレートな表出が全てではない。

 


・「ねじれた表現」としてのBL文化

BLもわたしにとっては「ねじれた表現」です。わたしにとって文化現象としてBLが興味深いのは、何よりもねじれているからなんです。

 

BLには、女性ジェンダーの苦しいあれこれがねじれた形で表出している(ようにわたしには思える)。

 

そしていつもイマイチ理解してもらえないんだけど、わたしは「ねじれ」それ自体に愛着があるので、「よりストレートな怒りに接続すべき」という議論にはあんまり乗れません。


たとえばBLオメガバースにおけるジェンダー観のひどさへの批判とか、そういうの、言いたいことはめちゃくちゃわかる。でもあまりにもストレートな批判だなと思ってしまう。「ものすごく保守的なジェンダー観を持っていることが丸わかりの人間が、にも関わらず異性愛ハーレクインとかではなくBLオメガバースを読んだり書いたりしている」事態が孕む奇妙さ、ねじれをストレートな批判で矯正してしまうことに抵抗を感じる*1

しかしわたしはフェミニズムの議論を非常に重要だと思っている人なので、フェミニズム的な批判を軽んじる人には普通にガンギレしてしまう。めちゃめちゃ厄介ですね。


木原音瀬という「厄介」な作家

とはいえわたしの「厄介さ」にヒットする作品というものもあり、それはたとえば、我らが商業BL小説界の巨匠、木原音瀬の作品です。

 

商業BL小説は漫画と比べて市場規模がマジで小さくて、作家もマジでいなくて、10人くらいのすごい作家がものすごい冊数出して何年もずっと支え続け、同じ面子がちるちる年間ランクを何年も支配しているみたいな世界なんですけど、木原音瀬も95年のデビュー以来長年大量にBL小説を出し商業BL小説界を支えてきた作家の一人です。

 

木原音瀬は商業BL小説家にしては珍しく、講談社のようなBLレーベルではないところにも本が入ってます。
ちなみに講談社文庫で『箱の中』『美しいこと』『秘密』といった作品が読めます。
個人的に大好きなのはCOLDシリーズですが、講談社文庫で気軽に読めるもので言うと、オススメは『美しいこと』かな。女装姿である男と恋に落ち、実際の性別を言えないまま付き合うが……という話で、「男が好きなんじゃない、お前が好きなんだ」という一昔前のBLで死ぬほどよく見かけたBL定型文(現在はあまり見かけませんが)を逆手にとった批評性を感じさせる、良い小説でした*2

 

最近はBLに限らず一般文芸を書いてもいて、2017年に集英社から出た『ラブセメタリー』はペドフィリアの男性たちを描く連作短編集でした。冒頭には、ペドフィリアの男性がゲイ男性に向かって「君は僕と自分を比較して、自分の方がまだマシだと思ってる」と言い放つ短編が配置されています。BLではなくても木原音瀬を読み続けよう、と思わせる本でした。

 

ところで木原音瀬の描くBLでは、割と凡庸でみみっちい人間と、子どものように無垢だが決定的に何かが欠けてしまっている人間(アダルトチルドレン)がよく出てきます。(たとえばCOLDシリーズ、『箱の中』『檻の外』『秘密』『こどもの瞳』etc)
このみみっちい人間のみみっちさが、本当にしょうもない。萌え的に可愛いとも思えない。普通に嫌な人間で、その嫌らしさを書くのが木原音瀬は非常にうまい。あと無垢で決定的に何かが欠けた人間も、その無垢さが尋常ではない。可愛いといより不気味。木原音瀬の描く人物は、リアリスティックな造型だというだけではない人間観の屈折をわりと感じる。

 

でも、木原音瀬ってBL作品だとすごく素敵なハッピーエンドなんです。
キャラクター造型やそれまでのストーリー展開から感じる屈託や人間の善良さに対する信頼感のなさ、厳しいリアリズムと組み合わさって、終わりだけ妙に浮いている気がする。なんだか歪ささえ感じるハッピーエンド。個人的にはその歪さがまた好きです。
非常に屈折した世界観や人間観を持っているけど、BLでなら人間の善良さや幸福を信じられるのかな、と思う。そんな屈折がとても好き。

 


木原音瀬アオイトリ

BL文化のある種の「ねじれ」のある側面は木原音瀬作品にも刻み込まれています。

 

たとえば、やっぱりBL文化にはかなり苛烈なミソジニー女性嫌悪)があります。
そういう意味で言うと、『箱の中/檻の外』なんかでの女性の描き方、いわゆる規範的な異性愛家族を描くときの木原音瀬の筆致からは、結構強烈な憎悪を感じる。ミソジニーと言うとなんだか作家を非難しているようですが、別に非難したいわけではありません。そうではなくて、木原音瀬は、女性ジェンダーをめぐる「呪い」のようなものを、意識的にか無意識的にかわからないけれど、強く感じ取っている作家さんなんだなということです。

 

そういう呪いのようなものを感じ取っている作家だからこそ書ける「ねじれた表現」というものがあり、木原音瀬オメガバースBL短編「アオイトリ」はわたしにとって大変興味深いものでした。

個人的には、オメガバースBLへのストレートな批判(=保守的なジェンダー観への批判)と、そのストレートさでは矯正しきれないBL文化の内包する「ねじれ」の、二つのベクトルを調停するような作品だなあと思う。

 

 

  

アオイトリ」はざっくり言えば、女性の恋人がいて異性愛者でオメガではなくなることを強く希望していたオメガの男性が、アルファの男性にレイプされ、望まない妊娠をしてしまう、という物語です。


この苦しみがとにかく尋常ではない。

主人公は自身の妊娠を受け入れることができず、予定日を覚えることもできません。生まれたら生まれたでノイローゼになってしまいます。

さらに追い打ちをかけるように、それまで軽かったはずのオメガの性質が制御不可能なまでに重くなってしまいます。ヒートに悩まされ、まともに生活することもできません。解決する方法は再び妊娠することだけです。一度妊娠したら終わり、ではないのです。自分の意思に反して自分を犯し、妊娠させた当の人間に、際限なく犯され、際限なく望まない妊娠を繰り返すしかありません。これが牢獄ではなくてなんなのか?

 

このオメガの主人公にとって、妊娠能力は圧倒的な呪いと牢獄以外の何物でもありません。
要するにオメガバースの、リアリティとして考えると地獄というほかない「犯され孕んでしまう性」の苦難って、BLマジック(快楽や運命や愛や母性)によって誤魔化されいつもハッピーエンド♡になっているのだけどまあ普通に考えて地獄だし牢獄だし呪いだし奴隷だね……ということを余すことなく描くのが「アオイトリ」です。どうでもいいけどこんな話にこんなタイトルつける木原音瀬、大好きすぎるな。

 

そしてこの作品がすごいのは、「オメガの男性は女性と身体構造が違うため中絶不可能」という独自設定が追加されてることです。

 

あの「犯され妊娠する性」の苦難を増大拡大させ盛り込むオメガバース設定に追加して、さらにそこまでやるのか〜〜〜とわたしは心底びっくりしてしまった。

「男性は女性と身体構造が違うので中絶できない」って、本当にすごいですね。

ありとあらゆる場面で、とりわけ生殖をめぐって言われ強固な枷となってきた「男性と女性は身体構造が違うので」をこんな風に使うんだなあ、「犯され孕む性」の苦難をBLで男にやらせるにあたってこんな風に呪いをかけるんだなあ、と驚嘆せざるを得ませんでした*3

 

木原音瀬の「アオイトリ」は、一見すれば多くのBLオメガバースが内包する「保守的なジェンダー観への無批判さ、レイプされても望まない妊娠をしても最終的には運命や愛やら何やらでハッピーエンド♡になりがちであるという状況」への痛烈なカウンター(ストレートな批判)のようだけど、そのような真っ当な批判というだけには留まらない、いささか過剰なまでの「呪い」もまた、同時に感じるものです。

 

要するに木原音瀬アオイトリ」には、いわゆる妊娠出産能力をめぐる女性ジェンダーの苦しいあれこれが刻み込まれており、でもそれはわかりやすくストレートな怒りや抗議の表明ではなくて、歪んだ形で表出している。
たとえば「男性は女性と身体構造が違うので中絶できない」という独自設定として。
端的に言うと、そこからは容易には決して矯正されえない屈託を感じる。あまり正当化できないような暴力性もある。そしてわたしは、そのようなねじれた表現が好きです。

 

文化現象としてのBLは、男性社会の抑圧に対する怒りと裏返しになった女性ジェンダーへの苛烈な憎悪や否認やら何やらがごちゃごちゃ混ざり合っている。でも同時にやっぱりもっと単純に快楽をもたらすポルノでもあって、苦しみも何もなくただ単に萌えるものでもある。どちらか一方ではありません。BL文化にはどちらもある。そこでは「ねじれた表現」なのかそれとも単なるポルノなのか、見分けがつかないほどぐちゃぐちゃに混ざり合っていると思います。


BL文化のそういうめちゃくちゃさが好きです。危うさが好き。しんどいけどやっぱり好き。こんなことだらだら書いてるわたしが何より一番ねじれてて厄介なのかもしれないけど。まあこれからも厄介なオタクとして生きていきます。

*1:フェミニズム文脈でBLを論じている本として、たとえば溝口彰子(2015)『BL進化論』があります。ざっくり言うと、女がBLを求めるのは家父長制によって抑圧されているためであり、「女の体」ではなし得ないファンタジーが仮託されているのがBLである、といった話がされています。めちゃくちゃストレートな議論ですが、フェミニズム文脈でどう議論されているかがわかるので一読をお勧めします。

*2:「男が好きなんじゃない、お前が好きなんだ」という表現ですが、この表現については色々と思うところがあります。

ひとつには、死ぬほどよく見かけるほど「性別ではなく個人が好き」というファンタジーがBLオタクの女性たちに求められていた、ということもまた「ねじれた表現」のひとつなのかなということです。「性別ではなく個人を好きになる」というファンタジーを求めてやまないほど、女性たちは「性別ありき」で見られているという圧迫感を意識的であれ無意識的であれ抱えていたのかもしれない。その圧迫感が、こういうねじれた形で表出していたのかもしれない、と思います。

もうひとつには、単純に「同性愛」であることを否定している表現、同性愛をどこか低いものとみなしている偏見が垣間見える表現ではないか、ということです。「同性愛じゃなくて愛なんです」といった主張は、今も時折見かけるもので、わたしは問題のある表現だと思っています。これについては以前もブログで書いたので、よければ読んでみてください。

ちなみに「同性愛じゃなくて愛なんです」と言いたがるオタクが一定数見られるのには、単に偏見を持っているから、というだけではないとも思います。狭義の「恋愛」にあてはまらない物語を求めて同性愛フィクションを好むようになった、という人はたくさんいます。ではそもそもどうして「狭義の恋愛に当てはまらないものを求めるのか」「どうして同性愛フィクションだと狭義の恋愛ではないように思えるのか」といったことに関しても、以前ブログに書いたので、よければ読んでみてください。(記事では百合作品を題材にしていますが、BLのオタクにも共通していると思いますし、取り上げている作品を知らなくてもそれほど問題なく読めると思います)

*3:女性差別の「根拠」としてよく持ち出されてきたのが「男性と女性の身体構造の違い」です。体のつくりが違うから仕方ないんだよ、という風に正当化される差別のあれこれに反論してきたのがフェミニズムですが、「アオイトリ」はまともに反論するのではなく、フィクションの中で呪いをかけています。「ねじれた表現」だな〜と思います。

マジョリティと責任の問題

これはわたしの観測範囲の問題かもしれないんですけど、最近のインターネットを見ていてよく思うのが、「マジョリティである」と認識することの難しさです。

ひとはいろんな属性を同時に持っているので、ある場面ではマジョリティだけど別の場面ではマイノリティである、といったことはあります。

でも、それがわからない人がすごく多い気がする。ある文脈ではマジョリティになっているにも関わらず、自分のことをいついかなる時も絶対マイノリティだと思っていて、批判されると「また口をふさがれた」みたいな被害者意識を強めてしまう、みたいな光景をめちゃくちゃよく見る。その被害者意識が攻撃に転じる。で、すでに抑圧されている人をさらに傷つけてしまう。そういう、最悪な負の連鎖があらゆるところで起きている気がする。

 

多分それって「マジョリティである」と認識すること、それにまつわるあれこれを引き受けることが本当に難しいからっていうのも、理由のひとつにあるのかなあと思います。そういう意味で、最近読んだ雑誌『現代思想』2019年1月号の、岸政彦さんと信田さよ子さんによる「マジョリティとはだれか」という対談がすごく参考になるな〜と思いました。

今の時代にとって結構大事な話をしていると思ったので、以下は自分の関心に沿って簡単なまとめ&メモです。ここで紹介しているのは一部分だけだし自分のメモも多いので、興味を持った方はぜひ原文を読んでみてください。

 

 

・マジョリティとは何か

岸先生が、マジョリティが現れるのは「つねに引きずり出される瞬間」(p215)であると言っています。マジョリティは、無色透明な個人として、普段は何も考えずに生きていられます。だけど自分の立場性に気づかされる瞬間があり、それは最も端的に言って、マイノリティと対峙した場面です。岸先生は例として、性暴力があったときに、実際に加害行為をしていないとしても「お前は男だ」として、加害者のあるカテゴリーのなかの一員として急に引きずり出される感覚がある、と言っています。

 

・個人であること、社会で生きていること

これはわたしの個人的な意見ですが、「自分は直接的加害者ではないにも関わらず、加害者のあるカテゴリーの一員として引きずりだされてしまう」という話は、より一般化して言うと、個人であると同時に社会で生きているということの難しさだと思います。

わたしたちはそれぞれユニークな「個人」であると同時に、ある社会的な属性を背負っています。先の例で言うと、岸先生は他に代わりのないたった一人の個人ですが、同時に「男性」という社会的カテゴリーに含まれてもいます。だから個人として何もやっていないのに、属性によって批判の対象になってしまうこともあるかもしれない。マイノリティ、被害者側も同じです。個人としては何もやっていないのに、属性によって差別されてしまうかもしれない。属性は個人を構成する要素のひとつで、切り離すことはできません。でも個人として、その人(マジョリティであれマイノリティであれ)は特に何もしていないのも確かです。だから色々難しい。

 

・マジョリティの「冤罪恐怖」

今までマイノリティ関連の話だと、マジョリティの「被害者意識」(白人差別、みたいな話)がよく語られてきたように思いますが、この対談で面白かったのが、それは被害意識でも加害妄想でもないと言われていることです。

たとえば、実際に加害行為をしていなかったとしても、「お前は男(マジョリティ側、加害者側)だ」と引きずりだされてしまう。痴漢をしていなかったとしても、疑惑を持たれたら「やっていない」と言うしかない。でもおそらく本当に痴漢をしている人だって「やっていない」と言う。実際にやった場合でもやっていない場合でも出る言葉が一緒になる、そのことに恐怖を覚える。要するに、マジョリティに「冤罪の被害者妄想」があるんじゃないか、と言われています。「自分がやったことのないことで責任を取らされる、しかも無限に取らされるのではないかという根拠のない恐怖心が、非対称的な構造のなかでのマジョリティの一つの暴力を駆動している原動力なのではないか」(p215)。

 

・倫理的強迫観念

余談ですが、対談の中で語られてる「冤罪の被害者妄想」は「それまでは無色透明だったマジョリティ」の話だと思うけど、差別問題に何らかの形で関わっている人にはまた別の強迫観念がある気がします。

わかんない人には意味不明だと思うけど、「あらゆることに責任を負っておりある不正義に反対したらまた別のあれこれにも反対しなければならず、そうしないと義務を怠っている気がして罪悪感に駆られ、結果次から次に起こるあれこれにずっとキレまくる」 みたいな倫理的強迫観念ってあるんですよ。それはある意味、「加害者」(マジョリティ)になることへの神経症的なまでの恐れでもある、のかもしれない。

 

・責任の範囲

無色透明だったマジョリティの「冤罪の被害者妄想」と次から次に起こるあれこれにずっとキレまくる人の「倫理的強迫観念」、これらはどちらも、責任の範囲がわからないことへの恐れなのかもしれないな、とこの対談を読んで思いました。

マジョリティ/マイノリティの問題は、自分が加害行為をしていなくても、自分が持っている属性によって何かしらの「責任」が発生してしまうようなところがある。しかもマジョリティ/マイノリティの境目は実は曖昧で、ある場面では抑圧的なマジョリティに対峙するマイノリティだったとしても、別の場面では自分が非難される対象になったりする。その曖昧さ、不明瞭さが恐怖の一因でもあるのかもしれないなと思いました。

そしてその責任の範囲の不明瞭さへの恐怖心は、過剰な防衛反応、被害者/マイノリティに対する攻撃へと転じてしまうことがあります。岸先生が言っていますが、「無限に責任を取らされるのではないかという恐怖感が、責任を全否定してしまうところに走ってしまうことがある」(p216)。

 

・「責任の取り方」のフォーマット

そこで、DV加害者のプログラムに関わっている信田先生は、マジョリティや加害者の「責任の取り方」を具体的に示すことを提案されています。

無制限に責任を取らされることへの恐れが、自分たちを加害者化したマイノリティに対する攻撃に転じてしまう、という悪循環を断つために、責任の範囲をある程度決めてやることが必要なんじゃないか、と。「こういうフォーマットでこういうことをやれば最低限の責任をとったことになるよ、ということを誰かが示せばよいのではないか」(p216)ということを言っている。なるほどな〜と思いました。

 

・被害者の感情

信田先生の提案について、岸先生は、それはマジョリティにとっては良いだろうけど、そうした解決はある種の被害者からすると一番耐えられないところなのではないか、と言っています。無限に責任を負わせたい、という感情がやっぱりあるだろうと。

できる範囲でプラグマティックに責任を取りました、終わりです、って言われたらたまらないと思う人は絶対にいる。そりゃそうだよねと思う。でも信田先生の提案もそれはそれで実際的にはベストだと思う。

 

・全体を通しての雑感

上でメモした以外にも、岸先生の沖縄との関わりにまつわる「マジョリティとしてマイノリティとどう関係していくか」みたいな話が対談の後半にはあって、それもすごく大事な話なんですけど、今回はひとまずここまで。

ざっくり言って、マジョリティであることとその責任の取り方をきちんと考える、というのは、自分の輪郭を見定めることだと思いました。

わたしという人間はこういう場面ではこういう立場性を有していて、こういう責任が発生する、どういう責任の取り方ができるか考える、ということをしっかり場面場面で認識していくこと。

無制限の責任に怯えてしまう心理はある。マジョリティの難しさがある。だからこそその難しさを直視した上で、できることを考えていくし、その解決策の困難さも直視していく。簡単に言えば対談で言われているのはそういう話です。

そしてそれは結局、「自分の輪郭」の解像度を上げていくことだと思うんです。

 

ただ、この雑誌に載っている他の対談や論文を読んでいて、現代では自分の輪郭を見定めるのがそもそも難しい人がすごく多いのかなとも思いました。まだうまく説明できないんだけど、直観的に。「自分の輪郭」なんてわからないし、そんなものはなくしてしまえ、という感覚が強いのかなって。それは時代的な、構造的な問題でもあり、単に自分に向き合うのが怖い、どんな程度であれ責任なんて負いたくないみたいな話でもあり、どちらでもあるのかなという気がした。この辺はそのうちもうちょっと考えたいです。

ディズニー映画とポリコレ、それはそれとして

ディズニーは呪いをかけるのと呪いを解くので二度稼いでる。
こう言ったからといって、別に呪いを解くことを否定しているのではないし、呪いを解かれて勇気付けられることの意義を大切に思っていないわけでもない。でも、別の角度から見たらやっぱり二度稼いではいるんだよね。という話。

 

(1)ディズニー映画とポリコレ

近年のディズニー映画がいわゆる「ポリコレ」で評価されているのは、おそらくそれなりに知られていることです。
ベイマックスの日本の描写、ズートピアにおける差別の寓話、レリゴーと高らかに歌うアナ雪、ただ塔のてっぺんで王子様を待っているだけではない勇敢なラプンツェル、王子様を頼ることなく自ら大海原に飛び出して行ったモアナ、エトセトラ。
もちろん「ポリコレ」という言葉が膾炙したのが比較的最近だったというだけで、「ジェンダーや人種をステレオタイプに表現するのではない物語」という意味で言うなら、ディズニーは90年代からずっと努力をしています。悲劇のヒロインではない人魚姫のアリエル、白人ではなく行動的なプリンセスのジャスミンポカホンタスにムーランに、その努力の蓄積は言うまでもありません。
90年代に生まれ、努力を始めたディズニー映画とともに育ってきた人間として、ディズニー映画に感謝する気持ちは十分にあります。白雪姫もシンデレラも好きではあったけれど、同時ににアリエルやジャスミンがいてくれてよかった、と心から思います。

 

というのも、ステレオタイプな物語――たとえば「女の子=王子様に救われるお姫様」というジェンダー固定的で異性愛主義的な物語や白人ばかりが活躍するような物語――は、ある意味「呪い」だからです。
こういう属性だったらこういうもんでしょ、と様々な物語の中で繰り返し言われることは、その人を縛る呪いになる。
だからステレオタイプではない物語は、「好きにしていいんだよ」という承認の意味があり、呪いを解くものです。

 

ディズニー映画はかつては「呪いをかけている」と批判されていましたが、90年代以降のディズニー映画は呪いを解くような――とはいえ不十分さもまた繰り返し指摘されてきましたが――物語を描いてきたことは確かです。少なくとも努力の姿勢を見せてはきた。それがどれほど不十分だとしても、見せもしないよりはずっとマシでしょう。

 

近年の「呪いを解く」ディズニー映画によって、多くの人が――特にかつて呪いをかけられた人が――勇気づけられ、歓迎していることを知っています。ちなみにわたしはズートピアは大嫌いでしたが、マレフィセントとアナ雪には熱狂しました。王子様とお姫様のカップリングよりも明白に強いものとして女性同士の絆が描かれていたからです。

 

だからわたしは90年代以降のディズニー映画が呪いを解こうとしてきたことを否定したいわけではないのです。その上ででどうしても思ってしまうのです。ディズニーは呪いをかけるのと呪いを解くので二度稼いでる。要するに「呪いを解く」ことはお金になる、のだと。

 

 

(2)模範解答としての『くるみ割り人形と秘密の王国』

おととい、ディズニー映画の新作『くるみ割り人形と秘密の王国』を観てきました。
画面はずーっと可愛くて、安定のディズニークオリティだったのですが、個人的にはあまりにもいわゆる「ポリコレ」的に「模範回答」に思えて、それが引っかかってます。
と、書いたところで急いで付け加えさせてください。「模範回答」であることを悪いと言いたい訳ではありません。「ポリコレに配慮するとつまらなくなる」といった話がしたい訳でもありません。これだけは明確に言っておきますが、そのような話をしたがる人間をわたしは心の底から軽蔑しています。


という訳で、もしもこの記事を読み始めた人の中に「呪いを解く」ことをそれほど重要だとは思えない/「ポリコレ」なんてくだらない、といった考えを抱いている人がいたら、今すぐブラウザを閉じてください。わたしはあなたに都合の良い話をするつもりはありません。

 

また、物語を読み解くうえでジェンダーや人種といった問題を「持ち込む」ことに反対している人もブラウザを閉じてください。物語は現実社会の中で生み出され、現実社会の人間に受け止められるものであり、そこに現実の何かしらの反映が見られるのは当然のことだからです。物語の中で起きることはもちろん、現実の事象とは異なります。けれども現実と全く切り離されている訳ではなく、物語と現実は直線的な対応関係ではないにせよ、やはりある種の関係を結んでいるものです。

 


さて、様々な留保と注意書きの上で言わせてもらいますが、くるみ割り人形と秘密の王国』は、いわゆる「ポリコレ」的に模範回答に見えます。
まず主人公の少女は機械が得意です。要するに理系なんですね。「女性=感情的で論理的ではない=数学その他の理系科目が苦手」という悪名高いステレオタイプを打ち破っています。そして彼女は勇敢です。自ら兵隊を率いて戦地に向かう、強いプリンセスです。男性の兵隊達が恐れをなして立ち止まると、彼女はそんな彼らに対する苛立ちを露わにし、先陣を切ります。「王子様が救ってくれるのを待つか弱いお姫様」の影はまるでありません。

 

そもそも、この物語には「王子様」が存在しません。
いるのは彼女と行動を共にするキャプテン(大尉)であり、彼は黒人です。ついでに言うと、主人公の少女が冒険を始めるきっかけを作る叔父も黒人です。物語中に登場するバレリーナも黒人です。というか、画面で多くの人間が映ると、パッとわかる形で肌の色が白い人間ばかりではないと気づくことができます。白人だけが活躍する物語ではないのです。

 

むしろ、今まであらゆるヒエラルキーの頂点に君臨してきた「白人男性」は、主人公のお父さんを別として、この物語では特に主要な役割を与えられていないようです。他に目立った形で出てくる「白人男性」は、ギャグのちょい役のような形でしかありません。

 

ちょい役、のような形しか与えられてこなくて、人間らしい感情を描写されてこなかったのは、これまではマイノリティでした。トロフィーガール、マジカルニグロ、それらはマジョリティ(たとえばシスヘテ白人男性)に都合の良い形でしかない、人間らしい感情を描写されることのない役柄であり、マイノリティのステレオタイプな表象として長く批判されてきたものです。しかしそれがここでは、白人男性というマジョリティに与えられる役柄になっている。
くるみ割り人形と秘密の王国』を観ながらわたしはずっと、これまでのマジョリティとマイノリティの構図が(少なくとも表象においては)見事に反転している、ということについて考えていました。

 

(ただ、ひとつこの「模範回答」にケチをつけるなら、悪役の女性の描き方かなあと思います。悪役の女性において、いわゆる「女性的な性質」が際立っているように思えたのが、わたしには引っかかりました。とはいえ、主人公も味方も女性ですから、大きな減点にはならないだろうとも思います)

 

 

(3)表象におけるマジョリティとマイノリティの反転

これまでのマジョリティとマイノリティの構図が(少なくとも表象において)見事に反転している、という映画は『くるみ割り人形と秘密の王国』だけではありません。
そういえばわたしは、今年評判になった別の映画『シェイプ・オブ・ウォーター』を観た時も同じような感想を抱いたのでした。あの映画では、主人公は障害を持った女性であり、彼女の友人は黒人女性とゲイ男性であり、わかりやすくマッチョなシスヘテ白人男性が悪者です。あの映画を観ながらわたしは、あまりにも自分の欲望を的確に反映した物語になっていることに、戸惑いを感じていました。

 

簡単に言うと、わたしはいわゆるマッチョな社会的強者(たとえばエリートのシスヘテ白人男性のような)に良い印象が抱けない人間です。そういう人を「悪者」と認識しがちです。そういう「悪者」の活躍する物語よりも、そのような「悪者」に虐げられる諸々の社会的に弱い立場にいる人々が救われる物語の方が、ずっと好きです。
もっと露悪的に言い換えます。
エリートでマッチョのシスヘテ白人男性がめちゃくちゃに悪者で、その人生がめちゃくちゃになるところを見るとわたしは嬉しい。

 

シェイプ・オブ・ウォーター』を観た時の戸惑い、というか居心地の悪さは、ある種のルサンチマン的欲望が真正面からメインストリームに肯定されているように思えたこと、またそれが極めて図式化しやすい形で行われていること、です。
「エリートで差別主義的な白人シスヘテ男性」と対置される「障害を持った女性」「黒人女性」「失職中のゲイの画家」、これらはあまりにも記号化しやすい表現です。そしてこの明快な図式を持った物語が、アカデミー賞で4部門を受賞し、ゴールデングローブ賞でも2部門を受賞し、思い切りメインストリームで評価されています。(属性の表象以外にも当然切り口が様々にあり、これらの賞で評価されたポイントも様々だろうことはわかっていますが、とはいえひとつの基準として)

 

呪いを解こうとするディズニー映画は、その総合的クオリティの高さのためということはもちろんですが、世界的に商業的成功を収めています。商業的成功だけではなく、評価としても高い。シェイプ・オブ・ウォーターも同じです。
もちろん呪いを解いていることだけが評価の、商業的成功のポイントなのではありません。呪いを解きつつ、同時に総合的なクオリティもあるからこそ(と同時に、あまりにもわかりやすい図式であること、をわたしは付け加えたいのですが)、評価されているんです。

 

しかし、「呪いを解く」といってもその描き方には様々な形があり、すべてが評価されているわけではありません。ポリコレ=評価される、ということではない。旧態依然とした価値観により不当な評価しか得られていないものも、もちろんあります。

そもそも表象の上でどれほどポジティブに描かれたとしても、現実には様々な問題が依然としてある中で、表象の上での「反転」を語ること自体が馬鹿馬鹿しい、図式的すぎるだのなんだの文句を言うのではなく、ただ純粋に喜ぶべきなんだ、という意見も当然ありうるでしょう。実際その通りだとも思います。

 

ただ、(少なくとも表象において)「呪いを解く」ことはもう別に「反体制」ではない、というのもまた、明らかなように思えます。なにしろ巨大資本ディズニーが積極的に取り組んでいる。ディズニーが商業主義を捨てるはずがありませんね。アカデミー、ゴールデングローブ、権威からのお墨付きももらえます。

 

繰り返します。ディズニーは呪いをかけるのと呪いを解くので二度稼いでる。要するに「呪いを解く」ことはお金になるのです。

 

 

(4)結論とも言えない何かとしての「それはそれとして」


――しかし洋画やディズニーがどんなに「呪いを解く」ことに取り組み、またそれが実際にお金になっているのだとしても、日本はまだまだじゃないか。「ポリコレ」で検索した時のインターネットがどんな地獄を見せるかは言うまでもない。洋画やディズニーだって不十分であり、ひどいものもたくさんある。そもそも現実があり得ないほどひどい。ポリコレも何もあったもんじゃないほどひどい現実がそこにある。そんな状況下で「呪いを解く」ことを絶賛する以外のことをするなんて、しかも「図式的すぎる」だなんて微妙な話をして一体何になるんだ、単なるあなた個人の感性に過ぎないじゃないか、そんな馬鹿げた話で呪いを解かれ、救われたと感じている人の気持ちに水を刺すようなことを言うなんて――

 

……と、こんな反論の声が聞こえてきそうだなと思います。
そしてその反論は、全て正しいと思います。

 

こんな風に言っていると、一体あなたは『くるみ割り人形と秘密の王国』を批判したいのか、それともしたくないのか、どっちなんだ、と呆れられそうです。
答えはどちらでもあり、どちらでもないのです。

 

こういう時代の難しいところはそこです。

一方ではいかにも旧態依然としたひどい現実があり、他方では「先進性」らしき何かがあるように見えます。巨大資本ディズニーが呪いを解く映画を作っている一方で、現実はますますわたしたちに呪いをかける力を強めているように思います。ツイッターでは「フェミニズム」の声が大きいように見える一方で、唖然とするほど露骨な差別がまかり通る現実があります。先進性のような何かと同時に、信じがたいほどグロテスクな保守性の混合があります。何かを言うことは難しい。


でもわたしは「それはそれとして」と言うのが口癖です。
つまり、ある側面から見たらAだけど、Aであることを否定しているのではなくてでも別の側面から見たらBでもあるよね、という話をしたがる傾向にある。だけどそういう話をしてもあんまり理解されなくて、AかBかどちらか一方だと思われてしまうことが多い。わたしはそのことにずっと苛立ってきたけど、でも同時に、何かを言った瞬間にAかBかどちらかになってしまう側面もあるのかな、とも思います。

 

「呪いを解く」ことを否定したい訳ではなくて、それは非常に大事なことだと思っているけど、それはそれとして「お金になる」んだなあとも思っている。けれどもある状況下で、たとえば「呪いを解く」ことの大切さがあまり共有されていない状況で、そのような発言をすること自体が、「呪いを解く」ことを否定しているんだと(本来の意図はそうでなかったとしても)受け取られ、そのような効果を発してしまうのかもしれない、と思います。

 

だけどわたしは「それはそれとして」という話をしたいと思ってしまうのです。難しいとは思うのですが、それはそれとして。

リスロマンティックと語り口の問題

「ぬいぐるみペニスショック」という言葉をタイムラインで見かけ、ぬいペニショックが説明する「恋愛感情を向けられると想定していない相手に恋愛感情を向けられることがもたらす嫌悪感やショック」って、蛙化現象よりもうまくリスロマンティックを説明できそうじゃないかな? とふと思いました。

でも、そもそもリスロマンティックに関するまとまった議論があまりにも少なかったので、ひとまず「リスロマンティック」に関わる概念や論説をまとめるほうが先かなあ。

というわけで以下は簡単な覚え書き。

 

 


個人的ぼやき

「自分に振り向かないひとを好きになるのは自己評価が低いため」みたいな言説を見かけるたびに微妙なきもちになるのは、「“健全な恋愛をすることこそが”健全な精神のありよう」という話っぽく聞こえるときがあるからかな、と思う。

 

恋愛的指向(Romantic orientation)

そもそも「健全な恋愛」って何? 人間ってみんな「恋愛感情」を持っていて、他人にも「恋愛感情」を向けられたいと望んでいるものなの?
という話はさておき、近年広まりつつある「恋愛的指向」(romantic orientation)という概念があります。恋愛的にどんな対象に惹かれるか、もしくは恋愛感情をどのように抱くか/抱かないか、といった類のことを示す概念です。
重要なのは、「恋愛的指向」は「性的指向」という概念だけでは表しきれない現象を説明しうる概念だということです。
異性愛/同性愛といった言葉が端的に示しているように、日本語において性欲と恋愛は「性愛」という単語でセットにされていました。しかし「恋愛的指向」はそこを分けたのです。「恋愛的指向」という概念の発明は、「性的に惹かれる対象と恋愛的に惹かれる対象は必ずしも一致しない」ことを含意しており、より細分化してものごとを表す可能性を開くものだなと思います。


リスロマンティック(Lithromantic)

さてリスロマンティックは、この恋愛的指向のひとつです。日本語ウィキペディアの「恋愛的指向」に関するページでは、リスロマンティックは次のように紹介されています。

恋愛感情は抱くが、相手から恋愛感情を向けられることを望まない(もしくは必要としない)こと。相手と相互的な関係になると恋愛感情が失われる人もいれば、相互的な関係になっても恋愛感情は失われない人もいる。アコイロマンティック(akoiromantic)やアプロマンティック(apromantic)とも。

要するにリスロマンティックの最もミニマルな定義は、「恋愛感情は抱くけれど、両想いになることは望まない」ことと言っていいでしょう。
これまでの「普通」の考え方でいけば、誰かを好きになったら当然その相手に振り向いて欲しいと望むものであり、「付き合いたい」といった希望を抱くものであり、そうではない形はあまり考えてこられませんでした。リスロマンティックは、そのような「普通」の考え方からこぼれ落ちてきたありようを可視化する概念です。


アロマンティック・スペクトラム(Aromantic spectrum)

ちなみに、WikiAの説明では、リスロマンティックはアロマンティック・スペクトラム(Aromantic spectrum)に位置する恋愛的指向のひとつ、と書かれています。
アロマンティック・スペクトラムは、恋愛に関する従来の考え方から外れた恋愛的指向を包括する概念です。Aロマ、グレイロマンティック、デミロマ、リスロマ、等々。


あなたもリスロマンティックかも? 12のサイン

The Lithromantic: What It Really Means & 12 Signs You May Be One では、リスロマンティックの特徴を12個に分けて説明しています。どれかが当てはまったらあなたもリスロマンティックかもねということです。

 

・恋愛関係になる必要を感じない。
・恋愛感情を重要なものだと感じることができない。
・恋愛というものを嫌悪している。互いに愛を表現しあいたいと人々が望む訳がさっぱりわからない。
・恋愛というものを恐れている。恋愛で相手に心を開くことが怖い。
プラトニックな関係を求めている。
・恋愛感情を一時的に持つにも関わらず、ある段階に達すると消えてしまう。
・身体的接触(性的ではないものも含む)が嫌。恋愛的な触れ合いをしたくない。
・二次元など非実在のキャラクターが好き。非実在キャラから恋愛感情が返ってくることは当然ないので、非実在キャラへ熱狂している場合は、気持ちを返されること自体を不快に感じることがある。
・恋愛であれなんであれ、どんな種類の関係性も望んでない。どのような種類のものであれ他人と関係を育む、と考えると、不快な気分になる。
・付き合おうとかどう思ってるの、とか言われたら途端に好きじゃなくなっちゃう。リスロマンティックな人は、恋愛感情が存在していることを認めたくないのかもしれない。
・自分の恋愛感情を誰にも教えず、完全に秘密にしておきたい(告白するのが怖いからじゃなくて、相手に気持ちを返されたくないから)。
・恋愛じゃなくて、性的に惹かれることの方が先にくる。恋愛のパートナーよりセックスのパートナーを求めている(あとから恋愛感情が発生することもある)。

 

リスロマンティックにアイデンティファイしている人は、上の12個の特徴のどれか(もしくは複数)を持っている場合が多いので、自分もそうなのかなあ、と思ってる人は参考にしてみてください。


日本語圏における「リスロマンティック」

日本語版ウィキペディアに「リスロマンティック」の項目が登場したのは2017年2月3日のようです*1
ざっくり検索してみたところ、ウィキペディアに項目が登場するより前に日本語で紹介された記事としては、2014年6月30日の牧村朝子さんによる記事でちらっと言及されている のと、2015年9月28日にまつもむしさんのブログでもちらっと言及されている のと、あと2015年11月3日のハフィントンポストの記事がありました。
これらの記事におけるリスロマンティックの言及は、いずれも上記のミニマルな定義以上のものではなく、単純に定義をありのままに紹介しているものです。

簡単に検索してみただけなので断定はできませんが、おおむね2014年頃から日本語圏に紹介されはじめ、ハフポスの記事で若干広まったのかなという印象です。そしてより大々的に広がったのが2018年7月20日のPaletteによるツイートかな、と。


このツイートは2018年11月22日現在、16,874リツイートされ、29.164いいねされてます。
かわいい絵の漫画だったのがよかったのか、もしくは「皆さんも 気になる人やファンになった人に こういった気持ちを感じたことはありませんか?」という文言がTwitter民の心にヒットしたのか、まあとにかくこのツイートで「リスロマンティック」という言葉の認知度が結構上がったんじゃないかな。


リスロマンティックと蛙化現象

ミニマルな定義以上の話になると、リスロマンティックは先のPaletteの漫画のように①オタク的感情(アイドルや二次元キャラクター、あるいは「推し」に対するあれこれ)に結びつけられるか、もしくは②蛙化現象(自尊心の低さが原因で他人の好意を受け取ることができない現象)と結びつけられて語られるようです。
たとえば2018年6月12日の「デミロマンティックにスコリオセクシュアル――無限にうまれる新時代のセクシュアリティ」という記事 において、リスロマンティックの項目は次のような言葉で占められています。

断定はできませんが、調べたところ後天的な要素が強いような気がします。自尊心が低く、自分が好意をもたれることに嫌悪感を抱いてしまう、わざと嫌われるような態度を取ってしまう、などが特徴です。(個人の見解です)

また、リスロマンティックでグーグル検索すると、2018年11月22日現在、トップに前述のPaletteの編集長さんによる「リスロマンティックと蛙化現象の話」という記事が出てきます。この記事は短いので、特に論が展開されているわけではないんですけど、リスロマンティックという言葉とともに「蛙化現象」が紹介されています。リスロマンティックの中のある側面を説明する言葉として、「蛙化現象」が出てくるんですね。

また、実際に相手と交際することに関して抵抗がある人と無い人がおり、相手からの好意に不快感・嫌悪感を覚える「蛙化現象」という言葉も誕生しているらしい。

 そして「リスロマンティックと蛙化現象の話」に引用されているツイートがこちら。

 2018年11月22日現在、34,175リツイート、88,098いいねされているので、リスロマンティックのツイートの倍以上に結構広まってる。ちなみにこれは2018年7月19日のツイートで、Palette の「リスロマンティック」ツイートの1日前のものです。で、Palleteの編集長さんによる「リスロマンティックと蛙化現象の話」という記事が7月23日。このふたつをセットに理解する土壌はここで出来たのかなという感じ。

リスロマンティックに関するまとまった言説自体があまりにも少ない(当事者によるブログ記事などを除くと特に)ので正直こんなこと言っても意味ないんですけど、ひとまずリスロマンティックは①オタク的なもの、ないしは②蛙化現象的なものとセットになり、より広範囲に共感を寄せられる概念のようです。


リスロマンティックと過去のトラウマ

また、蛙化現象以外にも、リスロマンティックは「過去のトラウマ」といったネガティブな原因と結び付けられて語られる場合があります。
たとえば「アコイロマンティック:両思いになりたくない」(Akoiromantic: When You Love But Don’t Want to Be Loved in Return) という記事では、人がアコイロマンティック=リスロマンティックになる理由を6つに分けて説明しています。(※リスロマンティックはアコイロマンティック(Akoiromantic)とも呼ばれていて、内容的には同じです。)

その6つの理由とは、
・過去にひどく傷ついた経験があり、もう恋愛なんてしたくなくなってしまったから。
・虐待されて育ったため、人と関係を築くことが恐ろしいから。
・高嶺の花が好きだから。
・自分のセクシャリティをよくわかってないから*2
・自尊心が低いため、相手に気持ちを返されても自分がそれに値しないと感じてしまうから。
・親が不仲だったりして、恋愛関係に対する良いモデルがいなくて、恋愛を良いものだと思えないから。
という感じです。

この記事では「他人に気持ちを返されたくない、ということに気づくのが早ければ早いほど、それを乗り越えやすくなるよ」と書かれており、アコイロマンティック=リスロマンティックは完全にネガティブなもの、乗り越えるべきものとしてしか捉えられていません。
先の蛙化現象と結びつけた話もそうですが、リスロマンティック(アコイロマンティック)である「理由」を考えようとすると、どうしても過去のトラウマや幼少期の不幸といったネガティブな連想をされやすいみたいです。


「恋愛感情」の規範/語り口の問題

リスロマンティックは蛙化現象や過去のトラウマ、幼少期の悲惨な体験など、わりとネガティブな「原因」を想定されて語られる場合がある。でもそれって問題もあるんじゃない?ということについて。

 

リスロマンティックって「蛙化現象」と結び付けられて語られているのをちらほら目にするんですけど、「蛙化現象」は「自己肯定感のある健全な精神であれば問題なく恋愛できるはず」という含意を結局のところ持ってしまうから「恋愛感情」の規範を強化する言説になるんじゃないかな、と思います。
もちろん、実際に「自分のことが嫌いで、嫌いなもの(=自分)を好きになる人を気持ち悪く感じてしまう」という蛙化現象に非常に説得力を感じ、リスロマンティックにアイデンティティを見出す人も当然たくさんいると思いますし、それはそれで個人のアイデンティティの問題なので他人がどうこう言う話じゃない。
ただ、リスロマンティックという恋愛感情のありようを蛙化現象とあまりにもセットで語ると、リスロマンティックという概念、というか恋愛的指向という概念が出てきた意味がなくなっちゃわない? という懸念です。

 

恋愛的指向という概念は、「普通」はみんな恋愛感情を持っていて、両思いになりたいと思っていて、そうじゃない人はおかしいんだ、という考え方(=「恋愛感情」の規範)ではこぼれ落ちてしまうありようを説明するものだし、その意味で「普通」の考え方なるものへのカウンターなわけですよね。

 

でも蛙化現象や過去のトラウマや幼少期の悲惨な虐待といった、「悲劇」にリスロマンティックという概念が回収されてしまうと、そこが抜け落ちてしまう。

 

端的に言うと「あなたが恋愛感情を返されることを望まない、リスロマンティックであるのは、自尊心が低いせいである。それを直せば“普通”になれるよ」という話になったらマジで嫌だなということです。

 

繰り返しますが、実際に自尊心が低くて苦しんでいる人を否定したいわけでも、蛙化現象に説得力を感じつつリスロマンティックというアイデンティティを持っている人を否定したいわけでもありません。ただ、「リスロマンティック=蛙化現象だから」といった形で短絡されてしまうと、リスロマンティックっていう概念がせっかく出てきた意味がなくなっちゃうよねということです。
リスロマンティックに関する言説自体が、まだまだあまりにも少ないので、杞憂っちゃ杞憂かなという気もするんですが、恋愛に関する「普通」の考え方を強化するような方向にならないといいなと思います。

それは「普通」からこぼれ落ちる人のための概念、「普通」とは何かを捉え直すための概念だと思うので。

 

*1:https://twitter.com/wrmtw/status/827477113531883520

*2:これ読んでて意味わかんなかったんですけど、なんで恋愛対象と性的対象が異なることによるセクシャリティの混乱がアコイロマンティックの理由になるわけ??? 恋愛対象と性的対象が異なるものでありうる、ということは、恋愛的指向という概念に含まれていると思いますし、実際に食い違うことはあると思います。クロスオリエンテーションに関する記事を参照。

『やがて君になる』あるいは異性愛主義/百合の可能性について

 『やがて君になる』という作品は、「恋愛感情がわからない」ことに不安と孤独感を覚えている女の子(侑)と「恋愛感情は理解したけれども片想いだけしていたい」という女の子(燈子)のお話です。
 やが君において、人を好きになる気持ちは「当たり前」でも「説明不要」でもありません。言うまでもなくそのことがこの物語の大きな魅力であり、人々に支持される理由のひとつです。
 ただ、だからと言って「恋愛」にならないのではなく、むしろやが君の主眼は通常の恋愛漫画よりも「なぜそこに恋愛が生じるのか」を掘り下げて丁寧に描くことで、そのために「恋愛がわからない」「片想いだけしてたい」などの要素が登場するのであり、その意味で紛れもない「恋愛漫画」なんだと思います。

 

 ところで、恋愛感情が「当たり前」でも「説明不要」でもない状況で「恋愛」する様を描くことは、百合をはじめ同性愛表現が支持される時の大きな理由のひとつでした。


(1)同性愛表現と「恋愛」

 百合ナビに掲載されたインタビューの中で、『やがて君になる』の作者・仲谷先生はこんな風に仰っています。

恋愛のお話は好きなんですが、人を好きになる気持ちがあまりにも当たり前で説明不要なものとして描かれている作品には、私はずっとどこかで引っかかりを感じていました。その点、同性愛を題材とした恋愛作品には、相手を好きになる理由や葛藤、あるいは理屈をねじ伏せてしまうような強い関係性が描かれていることが多い気がして惹かれていきました。

別に異性間の恋愛描写に根拠がとぼしいとか、同性間の恋愛描写にはより強度が必要だということは決してないので、自分の言っていることがおかしいとは思っています。ただ、私個人にとっては、同性愛を扱った作品が、物語で描かれる恋愛感情に納得を与えてくれるものだったという体験があるのは仕方のないところです。

 「同性愛を扱った作品が、物語で描かれる恋愛感情に納得を与えてくれるものだった」という仲谷先生の意見と概ね変わらない意見を持つ人の数は、決して少なくないと思います。


 仲谷先生はきちんとした方なので「別に異性間の恋愛描写に根拠がとぼしいとか、同性間の恋愛描写にはより強度が必要だということは決してない」という断りをいれていますが、そのような留保なしで露骨に差別的な発言をする人も割といます。


 たとえば、ちょっと昔には「同性愛作品の方が(葛藤を乗り越えた)真実の“愛”が描かれているんだ」みたいなことを言う人、かなりいました。まあ今でも残念ながら「差別による”葛藤”が醍醐味」くらいのこと言う人そこそこ見かけますね。
 とはいえ、その手の発言が差別的で問題があるという意識は共有されつつあり、同性間の恋愛に「必然性」「葛藤」が必要だといまだにおおっぴらに言う人はだいぶ減ってきたんじゃないかな、と思います。


 同性愛は「特別」でもなんでもなく、異性愛と何も変わらない、と言う方が本当はより望ましいのはわかっているんだけど……、という留保が仲谷先生の上記の発言からは見える。
 わかった上で、わかっているからこそ、仲谷先生は「私個人にとっては、同性愛を扱った作品が、物語で描かれる恋愛感情に納得を与えてくれるものだったという体験があるのは仕方のないところ」と言う。差別的な意図はないし、異性愛に対して同性愛を「特別」なものとするつもりもないけど、ただ自分にとっては何かが違うように感じられるのであり、それは「仕方のない」ことなんだ、と。


 でもどうして「同性愛を扱った作品が、物語で描かれる恋愛感情に納得を与えてくれるものだった」んでしょうか?


(2)差別からの分離

 上記の発言に見られる仲谷先生の倫理観を反映して、やが君に同性愛差別的な描写はほぼ全くありません。(作中で目に見えてホモフォビックな人物、おそらく佐伯沙耶香の中学時代の先輩くらいでは?)


 そもそも、一昔前の百合だったらたぶん「納得を与えてくれる恋愛描写」を描くにあたって「恋愛感情がわからない」「片想いだけしていたい」といった設定など必要とせず、単純に「同性愛だから」というだけでそれを描こうとしたと思います。
 昔の百合だったら、「普通」はみんな異性愛者だから、同性への恋愛感情は「当たり前」でも「説明不要」のものでもない、とみなされており、それを「乗り越える」ことで納得を与える恋愛描写にしたことでしょう。


 でもやが君はそうしなかった。


 単純に言って、かつては概ね差別の存在ゆえに同性愛表現における「恋愛感情」に説得力が生まれ、それは同性愛表現が支持される理由のひとつになっていたと思います。
 これだけ言うと極めて差別的ですが、おそらくそこには恋愛感情が「当たり前」「説明不要」とされることそのものへの疑義があり、ただそれが、単なる差別(=同性愛の理想化)と見分けがつかなくなっていたのだと思います *1


 そしてやが君はそこを分けた。
 やが君は恋愛感情が「当たり前」「説明不要」とされることそのものへの違和感を、「差別ゆえの“葛藤”があるから、同性に対する恋愛感情は“当たり前ではない”から、だから同性愛表現の恋愛感情はより説得力がある」といった差別に基づく見解から切り離したんです。


 この分節化と切り離しは極めて重要であり、百合ジャンルの価値観がアップデートされていることの証拠だなと思います。


(3)同性愛表現と異性愛表現の非対称性

 ただこの分節化と切り離しがあってもなお、『やがて君になる』において重要な、恋愛感情が「当たり前」「説明不要」なものではないという状況そのものが結局のところ同性間だからこそ可能になってる部分はあると思います。


 言い換えれば、「恋愛」が当然ではない状況を捉えられるということ自体に、異性愛表現と同性愛表現の非対称性が存在しているのでは?という問題がある。


 フォロワーさんが、もしこれが男女の物語だったら世の異性規範によって早晩破綻していた可能性が高い、こういう振る舞いが許容されているのは同性間だからという部分が大きいんじゃないか、と言っていて、確かになあ、と思いました。


 単純に言って、異性愛だと周りもすぐに「あ、恋愛だ」という解釈をされるし、そのような解釈の影響を当事者たちも受ける。男女であっても「恋愛感情がわからない」「片想いだけでいい」といったことは当然あるでしょうが、世の中の「原則的には異性愛である」という価値観の存在が、そのような揺らぎを捉えにくくするんじゃないでしょうか。
 当事者は「恋愛」に距離を感じていたとしても、異性愛だともっと容易に「恋愛」に回収されると思います。なぜなら世の中には残念なことに依然として「原則的には異性愛である」という価値観(これを以下ではざっくり“異性愛主義”と呼びます)があるからです。


 このことはやが君の問題というよりも、「恋愛」概念そのものの揺らぎ(たとえば恋愛とも友情とも言い切れない曖昧な「巨大感情」、「名前のつけられない愛」等)を描くことになぜ百合やBLは長けているのかという問題です。
 仲谷先生が留保をつけつつも「仕方のないこと」として語らざるをえなかった、「同性愛を題材とした恋愛作品には、相手を好きになる理由や葛藤、あるいは理屈をねじ伏せてしまうような強い関係性が描かれていることが多い」ことの理由だと思います。


 ざっくり言えばそれは、同性愛表現は「恋愛」概念の揺らぎや説得力を持った「恋愛」を描くことに長けているけれども、それを可能にしているのは異性愛主義である、ということです。


(4)異性愛主義とは何か?

 では同性愛表現と異性愛表現の非対称性を生む「異性愛主義」とは何なんでしょうか?
 たぶんこの「異性愛主義」とは何かをきちんと分節化することによって、かつての「葛藤があるからいいんだ」みたいな差別的な話とも違う、仲谷先生が「仕方のないところ」として語らざるを得なかったある実感を、より正確に把握できるんじゃないかなと思います。

 

 さて異性愛主義とは、最も簡単に言えば「原則として異性愛である」とみなすことです。

 これだけ言うと単純なようですが、この想定は実に多くの犠牲を伴うものです。
 異性愛主義は非異性愛に対して差別的であるだけでなく、人々が抱きうる感情や関係性のありようを強く制限し、抑圧します*2

 

 

 まず原則として「異性愛」であるという想定は、男女とみれば即座に恋愛関係に違いない、恋愛感情が発生するに違いない、とする決めつけを伴います。

 男女ものだと「恋愛」概念の揺らぎを捉えにくいのもこのためです。

 あまりにも強い決めつけのため、男女を描くと「恋愛」から切り離すことが難しくなってしまう。
 言うまでもなく、これは異性愛者を自認している人にとって、自らが抱く感情・築きうる関係性の可能性を喪失させるものです。関係性や感情があらかじめこの決めつけによって制限されてしまうのです。

 「異性間の友情は成り立つか」みたいな話をするのが大好きな人たちっていますけど、この手の話をしたがる人はメタ的には、おそらくこのような喪失・制限に対するある種の「戸惑い」を表明しているんじゃないかな。

 

 また、原則として異性愛という時の「異性愛」には恋愛感情と性欲がセットで含まれています。

 恋愛感情と性欲が同時に、同一の対象に起こるだろうという想定も、異性愛主義は含んでいます*3

 要するに異性愛であろうと同性愛であろうと必ず性欲を伴うはずだと想定されており、したがって異性愛主義は、同性愛が「単に精神的なもの」であることを認めることができません。
 もしも同性愛が「単に精神的なもの」である場合を認めてしまうと、異性愛者と自認している人同士の「友情」と区別がつかなくなる。だから異性愛主義は「性欲」と必ず結びつけようとする。

 原則として異性愛が想定されているために、異性愛者は異性とセックスしなくても”異性愛者”でいることができるのに、同性愛者は同性とセックスしなければ「単なる友情」と言われる、「同性愛」は性欲と必ずセットにされる、この非対称性。

 「友情」と「恋愛」をどうしても切り分けたい、性欲と結びつけたいという思想としての”異性愛主義”です。


 まとめましょう。
 異性愛主義は、非異性愛に対して差別的なだけではなく、「友情」と「恋愛」を切り分け「恋愛」と「性欲」を必ずセットにするという側面を持っており、人々が抱く感情や築く関係性の種類を強く制限し、抑圧するものに他ならない。

 

(5)「仕方のないところ」

 異性愛主義とは何かを明確にしていくと、こうした価値観が支配的な場所では、「恋愛とも友情ともつかない何か巨大な感情があって」とか「恋愛感情とはそもそも当たり前で説明不要のものじゃないのでは?」とか、そういう話なんて全然できなそうな感じがする。というか、全然できなくしているものこそ「異性愛主義」なのでした。

 

 まあオタクならわかると思うけど、関係性オタクが異常に好きなのは「原作では恋愛と明白にみなされていない関係」から「恋愛」やら「性欲」やらを読み取ってしまうことであり、「いや公式ではやっぱ付き合ってはいないな」みたいな一種の冷静な諦観を時に抱くことがあっても、基本的には懲りずに公式で特に「付き合ってる」とみなされていない二人(あるいはn人)から「恋愛」あるいは「性欲」を(勝手に)読み取ります。


 そもそも結局のところ、恋愛と友情は明白に切り分けられるものではない。

 読み取りようによってはいくらでも「恋愛」になる。わたしたちは明白に恋愛とみなされていないものからあえて「恋愛」を読みとることで、その強固とされる境界線の揺らぎを暴露しつつ、曖昧さを孕んだ関係性そのものを楽しんでいます。


 言うまでもないことですが、恋愛も性欲も異性間でのみ発生するものではない。

 

 百合の定義はまあ人それぞれだけど、恋愛というだけではない任意の強い感情を含むという風に考えてる人もそれなりに多いと思う。それは「人間関係において強い関係性・感情は必ずしも(狭義の)恋愛に限定されるものではない」という実感も含むものです。

 

 これらは先に見た異性愛主義の、あらゆる側面に対するカウンターです。

 

 仲谷先生が「仕方のないところ」として留保をつけつつ語らざるをえなかったのは、おそらくは同性愛表現の中に見えた異性愛主義による感情や関係性の制限からの「解放」だったんじゃないかな、と思います。
 当然、その解放そのものが、異性愛主義による異性愛表現と同性愛表現の非対称性によって成り立っているということはあります。その限りでは「仕方のないところ」としていささか消極的に語らざるを得ない。


 けれども『やがて君になる』は異性愛主義の「恋愛感情の自明性」を問い直し、しかもその問い直しをホモフォビアから分離させた作品です。それってすごく大事なことだし、今後のジャンルの可能性を切り開いていると思う。

 

 つまりは(「葛藤があるから〜」「同性愛じゃなくてもっと別の〜」みたいな話がしてしまっているように)誰かを踏みにじることなく、感情や関係性の可能性を広げる、捉え返すような表現です。

 

 そういうな表現が今後どんどん産まれるといいなと心から思います。そして人間の感情や関係性の多様性が追求されればいい。と、思います。本当に。

 

*1:ホモフォビアと既存のカテゴリーに対する違和感・反発を分節化、切り離す必要に関しては以前もブログで書いたのでよければ読んでください。

*2:異性愛主義については竹村和子(2002)『愛について』を参照。

*3:恋愛対象と性欲を向ける対象を一致しているとみなすのも異性愛主義の抑圧のひとつ、ということに関しては以前ブログで翻訳した『恋愛対象と性的指向が食い違うことの意味について』を参照。